毛利元就

1497(明応6)年~1571(元亀2)年
安芸国(広島県)の国人、毛利弘元の次男として生まれる。父の隠居後、兄・興元(おきもと)が家督を継いだが、兄、その子・幸松丸が相次いで早世したため、523(大永3)年、重臣に推されて毛利家の家督を継ぎ、郡山城主となった。
中国地方は周防・長門の大内氏、出雲の尼子氏の両戦国大名が対立する状況にあったが、元就は安芸における大内方の中心として活動し、1540(天文9)年には尼子氏の大軍に攻め込まれたが、籠城してこれを撃退した。大内義隆の家臣・陶晴賢(すえ はるかた)が反乱を起こして大内義隆を倒すと、厳島の戦いで陶氏の大軍に勝利して晴賢を自刃させた。さらに尼子義久を降伏させ、西は長門から、東は備中、因幡まで10か国を手中に収めた。国人領主から一代にして中国地方一帯を統治する戦国大名に成長した元就は極めて計略に優れた知将であった。
広大な領国を統治するために有力家臣との養子縁組政策をとり、安芸の有力国人・吉川(きっかわ)家を次男・元春に、小早川家を三男・隆景に相続させたが、この両家は「毛利両川(りょうせん)」と呼ばれ、毛利一族として毛利本家をよく支えていく。元就は細心、慎重な性格で、子供らにたびたび訓戒を与えた。特に吉川元春、小
川隆景に嫡子・毛利隆元への協力を諭した書状が有名で、これが「矢は1本では簡単に折れるが、3本束ねると折れにくい」と示して3兄弟の結束を説いた『3本の矢』の逸話の源になったと考えられる。郡山城にて病没。享年75才。
①毛利元就の足跡をたどろう
■『毛利元就の生涯を簡単解説~乞食若殿から中国地方の覇者へ~』 徳永サトシ(12分)
地方の小勢力である国人から、強敵を次々に倒し、中国地方を制覇する戦国大名にのし上がった毛利元就の生涯を面白く、わかりやすく解説。
■『厳島の戦い 思いがけない奇襲。』 合戦歴史(31分)
主君・大内義隆を自害させた陶晴賢。その大軍を迎え撃つ毛利元就の策謀と戦術を詳しく、臨場感たっぷりに再現解説。謀将と呼ばれた元就の策謀の見事さと強さが実感できます。
『【毛利元就(後編)】大内氏と尼子氏を滅ぼす、第二次月山富田城の戦い』 わかりやすく、戦国歴史(14分)
宿敵の大内氏、尼子氏との戦いを簡潔に解説しています。
②毛利元就の言葉にふれよう
『毛利元就の名言15選!仕事で使える有名な名言の意味を徹底解説!』 ココアのマーチ
有名な「3本の矢」の逸話の他、家臣を大切に思う言葉、謀反人の同族に対する言葉などを紹介。
『毛利元就の名言・逸話35選』 戦国ヒストリー
元就は陶氏の大軍に勝利するため、狭い厳島におびき寄せて大軍の有利性をつぶそうとします。厳島におびき寄せるために考えた巧みな謀略とは…。
③毛利元就の生き方から学ぼう
■『「毛利元就」三本の矢のエピソードで有名な中国地方の覇者!』 戦国ヒストリー
わずか10才で孤児となり、家臣に所領を奪われて城から追い出された毛利元就。この逆境をはねかえし、中国地方の覇者へとのし上がっていきます。
『一国のため、自ら医道の奥義を極めた?毛利元就の専門医術について』 戦国ヒストリー
家臣の健康維持に気を配った毛利元就は医療体制の充実に力を入れ、自ら医師に医術を学びました。
さらに学ぼう
『毛利元就ゆかりの地おすすめ19選』 戦国ヒストリー
墓所がある吉田郡山城をはじめ、元就ゆかりの城址、石見銀山、厳島神社、博物館などを詳しく紹介。元就を育てた義母や仲睦まじかった正妻の話も興味深いものがあります。
■『毛利博物館』
旧公爵・毛利家の本邸であった毛利博物館は、毛利家ゆかりの文化財2万点を所蔵。「三本の矢」の逸話の元となった『三子教訓状』の他、国宝『四季山水図』(雪舟)、『幕府追討密勅』(討幕の密勅)など貴重な宝物を見ることができます。
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