砂漠を緑化し世界に平和を
――善意の植樹活動を実践した・遠山正瑛
『万葉集』最後を飾る祝い歌
新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事
これは、『万葉集』約4,500首の最後を飾る歌。作者は大伴家持です。家持は天平宝字2(758)年、因幡(現在の鳥取県)の国守(地方長官)となりますが、自分が都を遠く離れることで、名門・大伴家が朝廷の中で力を失っていくことを憂えていました。それでも彼は、雪の降り積もるお正月に役人を集めて宴を開くと、将来の幸を祈って歌を詠みました。
「新しい年の初めであり、初春でもある今日という日、この降り積もる雪のように、ますます良い事が重なっていきますように」
深い優しさを湛えた家持のこの歌は、まるで日本で暮らすすべての人の幸せを祈っているかのよう。私は鳥取県を訪れるたび、こういう先人たちの深い愛と祈りに包まれて自分が生かされていることを実感し、感謝の気持ちがあふれてくるのです。
人々を貧しさから救いたい
家持の時代からおよそ1, 200年後、農学者・遠山正瑛先生は鳥取大学農学部教授に就任しました。1906年、山梨生まれ。貧しかった幼少期、正瑛少年は母を助けるためによく山菜やキノコを採ってきたそうです。すると周りの人たちが想像以上に喜んでくれた──。食べ物があれば人々に笑顔があふれることを確信した正瑛少年は、農業を志します。
京都大学農学部では菊池秋雄教授の指導を仰ぎ、「農学を選んだ以上、人生に休みはありませんよ。植物は一日も休んでいないのだから」との教えを受けます。やがて正瑛青年は、恩師の計らいで外務省の留学生として中国へ。黄河流域で農耕について調査し、初めて大陸の砂と向き合いました。そこで、ゴビ砂漠が農地を侵食し、多くの人々が餓死していく様子を目のあたりにした正瑛青年は、砂漠を緑化し、農業を可能にしようと心に決めます。
しかし、時代は泥沼の日中戦争へと突入し、やむなく帰国。そして、導かれるように赴任したのが鳥取だったのです。鳥取の特産品、長いもやらっきょう、白大根、ねぎなどは、驚くべきことに、今では砂丘でも栽培されています。これは、正瑛先生の約30年にわたる努力の結晶なのです。
1972年、大学を退官した正瑛先生は鳥取での経験を人類のために生かそうと動き始めます。77歳で「第一次中国砂漠開発日本協力隊」の隊長に就任すると、内モンゴル自治区に広がるテンゲル砂漠へ。ここに近代的な葡萄農園を建設する計画でした。砂漠での農業は不可能と思われていた時代に、正瑛先生は世界に通用する葡萄を作ろうと、故郷の山梨から巨峰の苗木を持ち込んだのです。3年後、たわわに実った巨峰に、人々は度肝を抜かれました。昼夜の寒暖差が大きいことが葡萄作りに幸いし、日本産よりも甘く、すばらしい品質だったそうです。
その後、「日本沙漠緑化実践協会」を設立。帰国するたび、メディアの取材や講演に奔走しました。ひとえに、協会をPRし、砂漠緑化への募金活動を広げるためです。正瑛先生の呼びかけに応じたボランティアは、10年間でのべ7,000人以上。その中には鳥取の小学生の姿もありました。彼らはクブチ砂漠の奥地、内モンゴル自治区の恩格貝で300万株を超えるポプラを植林し、砂漠に森を蘇らせたのです。
「人生に休みはない」という恩師の教えを守り、若者たちと共に連日、10時間以上作業を続けてきた正瑛先生は、2004年、97歳で永眠しました。
生前、国連から「人類に対する思いやり市民賞」が贈られましたが、まさに思いやりに貫かれた人生でした。地球上の陸地の4分の1を占める砂漠では貧しさに宗教と民族が絡み、戦乱が絶えません。正瑛先生は砂漠を緑化し、民を豊かにすることが平和への道につながると信じ、命ある限り実践されました。
家持が歌に込めた祈りと、正瑛先生が示し続けた実践の大切さ──。それは、鳥取の地が脈々と継承してきた、人間愛の本質でもあったのです。
出典:『れいろう』令和3年1月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より