絶望から生まれた希望の光
――平和を祈り、愛に生きた医師・永井隆

8月9日、すべてを失って
雪の中から晴れ間がのぞく、いつもと変わらぬ空の色。次の瞬間、高度9,600メートルの彼方から、大きな物体が放物線を描いて落ちてきました。ピカッ! 青白い光が目の前をふさいだ途端、猛烈な爆風が体を宙に吹き飛ばしました。昭和20(1945)年8月9日午前11時2分、人類史上2発目の原子爆弾(原爆)が、長崎市に落とされたのです。
原爆とは、ウランやプルトニウムなどの原子核分裂に伴って放出される、巨大なエネルギーを利用した核爆弾のことです。爆発に伴って熱線と放射線を、さらに周囲の大気が瞬間的に膨張して強烈な爆風と衝撃波を巻き起こします。爆風の風速は音速を超え、凄まじい破壊力を持ちます。爆心地付近の建物は、ほぼすべてが吹き飛び、強烈な熱線で鉄やガラスも蒸発しました。屋外にいた人の皮膚は全身が炭のようになり、身体中の水分が蒸発したといいます。
長崎医科大学(現在の長崎大学医学部)に勤務していた永井隆博士は、この2か月前に白血病の診断を受け、余命3年を宣告されていました。幼子を抱えた永井さんにとって、それは大変にショックな出来事だったでしょう。そんな永井さんを、原爆投下という、さらなる悲劇が襲ったのです。永井さんは、一命はとりとめましたが、右の目の上と耳のあたりに大きな傷を負いました。血が噴き出し、右目は見えません。それでも永井さんは、看護師や研究室の学生らと共に、火の回った病室から患者を救出すると、すぐに手当てを始めました。自らも重傷を負いながら、頭を包帯でぐるぐる巻きにしただけで、被爆者の救護に尽力したのです。
翌日、永井さんが帰宅すると、家は原形を留めてはいませんでした。確かここに台所があったな、というあたりに黒い塊を見つけます。その脇には、クリスチャンである緑夫人が常に身につけていた、十字架のついたロザリオの鎖が……。黒い塊は、緑さんの骨の欠片でした。このときの永井さんの気持ちは、想像もできないほど悲しいものだったでしょう。
しかし、その絶望は半日と続かなかったといいます。なぜなら、永井さんは新たな希望を抱いたからです。その希望とは、「目の前に現れた原子爆弾症という新しい病気(症状)を研究しよう」という科学者魂であり、医師としての使命感でした。人間は、たとえ絶望の淵にあったとしても、やるべきことを明確に持てば、そこに希望が生まれるのですね。
平和を祈り、愛を捧ぐ
昭和23年春、長崎市内の浦上の地に、二畳一間の小さな家が完成しました。ここに移り住んだ永井さんは、「己の如く隣人を愛せよ」という聖書の言葉から、この家を「如己堂」と名づけました。実は如己堂は、「永井さんにゆっくり静養してほしい」と願って、浦上の人々が永井さんに贈ったものでした。
しかし実際は静養するどころか、訪れる人を元気づけるために、連日、永井さんはずっと起きて話をしたそうです。すると、その無理がたたって夜には熱が出るのですが、その熱をおして執筆活動に勤しみました。「戦争の記録を、そして戦禍から立ち上がる浦上の記録を、後世に残さなければならない」との思いが、多くの名作を生んだのです。原爆で最愛の妻を失った永井さんですが、疎開していた二人の子は幸いにも無事でした。限りない愛情を注いだ二人の子を残し、昭和26年、永井隆さんは43年の生涯を閉じました。
戦争を起こし、多くの人を殺戮するのも人間なら、生死をさまようような凄惨な経験をし、大切な人を失いながら、それでも人を愛し、優しさを注ぐのも、また人間です。永井さんのすばらしさは、恐怖心や孤独感に打ち勝ち、それらを平和への祈りに高め、愛を捧げ続けたところではないでしょうか。
世界で唯一の被爆国という歴史の重みを背負って、私たちはこの国に生まれました。その歴史の重みを怒りや憎しみではなく、祈りや愛に高め、生きる力に変えることが大切な使命の一つだと思います。
出典:『れいろう』令和2年8月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より