鈴木貫太郎

鈴木貫太郎(すずき かんたろう)1868(慶応3)年~1948(昭和23)年
関宿(せきやど)藩の飛地領代官・鈴木由哲の長男として和泉国(現在の大阪府堺市)で生まれ、幼少期を関宿(現在の千葉県野田市)で過ごす。
日清戦争、日露戦争に従軍し、海軍大将に昇任して連合艦隊司令長官、海軍軍令部長などを歴任した。特に日露戦争の活躍はめざましく、部下からは「鬼の貫太郎」「鬼の艇長」と呼ばれた。
昭和4年、昭和天皇のご希望により侍従長に就任。2.26事件に遭遇し、陸軍青年将校に襲撃されて瀕死の重傷を負うが奇跡的に一命を取り留めた。
枢密院議長を経て昭和20年4月、小磯内閣のあとをうけて首相に就任。8月、二度の御前会議によりポツダム宣言受諾を決定し、日本を終戦に導いた。
戦後、吉田茂の要請で再び枢密院議長に就任し、新憲法の制定に携わった。
関宿町にて肝臓癌により死去。享年81。遺灰の中には2.26事件の時に受けた銃弾があった。

①鈴木貫太郎の足跡をたどろう

『鈴木貫太郎はどのような天命を持っていたのか?昭和天皇から最も信頼された総理大臣』世界が称賛する日本(21分)

徹底抗戦論を抑え、大きな混乱なく見事に戦争を終結に導いた鈴木貫太郎首相。この成功の背景にあったのは、若き昭和天皇との強い信頼関係でした。

『【終戦】その後の鈴木貫太郎』 昭和の真実(22分)

「2・26事件で鈴木貫太郎を襲撃した安藤大尉はなぜ部下にとどめをさすよう命令しなかったのか」など、鈴木貫太郎の生涯を様々なエピソードを交えて紹介。

②鈴木貫太郎の言葉にふれよう

『【鈴木貫太郎の最期】日本の滅亡をくいとめた軍人。戦争末期に首相に就任、戦争終結に向けて尽力した男 祖国日本(10分)

ポツダム宣言受諾の決定は通常の会議手順では不可能でした。戦争を終結させるために鈴木貫太郎が考え出した裏ワザとは…。鈴木の獅子奮迅の活躍、死に臨んだ最期の言葉などを紹介。

『【武士道精神】ルーズベルト大統領死去、鈴木貫太郎総理が見せた神対応に海外から賞賛の嵐!【海外の反応 日本人に誇りを!】』  Loma Segars(9分)

アメリカ大統領死去の際、内外の人々を驚嘆させた鈴木貫太郎の対応とは?
このような鈴木の行動の元にあったものは何だったのでしょうか。

『首相就任時の表明文』  Wikipedia

「まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信致しまして…」
この言葉から、鈴木貫太郎が老躯に鞭打ち、決死の覚悟をもって首相の任を拝受したことが伝わってきます。

今般、私に大命を拝して、この重責を汚したことにつきましては、あるいは国民諸君の中には、意外とされた方も少なくなかったと存じます。真実、私も齢(よわい)八十になんなんとする今日まで、一意ご奉仕は申しあげてまいりましたがいまだかつて、政治方面に関与したことは無かったのであります。この点よりすれば、当然お受けする柄ではないのであります。しかしながら、戦局かくのごとく緊迫した今日(こんにち)、私に大命が降下致しました以上、私は私の最後の奉公と考えますると同時に、まず私が一億国民諸君の真っ先に立って、死に花を咲かす。国民諸君は、私の屍を踏み越えて、国運の打開に邁進されることを確信致しまして、謹んで拝受致したのであります。戦局のしすうについては、実に楽観を許さざるものがあり、しかも皇軍将士の勇戦、生産戦士の健闘にもかかわらず、醜敵(しゅうてき)が本土に土足をかけてくるような事態にたちいりましたことは、臣子としてまことに申し訳ない次第でありますがこれを挽回するの道は、国民の憤激を結集し、国家の集中して、一億の赤子一丸となって、これにあたるのほかはないのであります。ひるがえって、古今世界の歴史をみましても交戦諸国において、大国必ずしも勝たず、小国必ずしも敗れず。しかも小国の大国に勝つ場合は、それがすべてあくまでもがんばって戦い抜いた場合のみであります。我が帝国が世界の大国米英を敵とするこの戦争でありますから、今日の如き自体は当然おこることであり、あえて驚くにはあたりませぬ。われわれが必死の覚悟を以て、すなわち捨て身であくまで戦い抜いていくならば必ずやそこに勝利の機会を生みまして、敵を徹底的に打倒し得ることを確信するもあります。戦争の要訣(ようけつ)は、国民があくまで戦い抜くという固い決意のもとに国家の総力を結集するにあります。すなわち、国内においていやしくも諸事対立するものあらば、これを解消し、従来の因縁や行きがかりを捨てて、すべてを戦争遂行の一点に集中しなければなりませぬ。ここにおいて国内戦時態勢のすみやかなる整備をはかりまして、いっさいの国土防衛の諸施策を急速に実行するとともに庶政一新、国民のやむにやまれぬ憂国の情熱を基礎といたしまして、老いも若きも手をとって、直接、戦争のためにはたらくよう、任務遂行の責任を明らかにするとともに、簡素に、強力に、国策を推進してまいりたいと存じます。以上のような立場から、国民総員、清新にして活発、希望満々のうちに奮って戦い抜けるよう、安んじて困難におもむき得られることを目途として、諸々の方策を即急に実行いたしまして、以て新局面を展開し宸襟を安んじたてまつる覚悟であります。わたくしがこの秋(とき)、この危局に老軀(ろうく)をひっさげて起ちますことは、自らかえりみて悲壮の感がありますが、大いに若返りまして、心身いっさいをささげて臣節を完うしたいと存じます。わたくしは政治は素人でいっこうわかりませぬが、いっさいをあげて戦争を勝利に導くよう努力いたそうと存じます。国民諸君には、この意を諒(りょう)とせられ、ご協力あらんことを切に願う次第であります。
昭和20年4月7日                — 内閣総理大臣  鈴木貫太郎 

太字は映像ニュース「日本ニュース」第250号で使われた部分。

③鈴木貫太郎の生き方から学ぼう

No.0100 鈴木貫太郎(上)~ いかに国内統一を維持したまま、終戦を実現するか』国際派日本人養成講座 (動画+読み物)

戦争末期、世界平和を望まれる天皇の篤い信任をうけて首相に就任した鈴木貫太郎。日本の命運を担った鈴木は自らの死を覚悟して日本を終戦に導きました。

『No.0101 鈴木貫太郎(下)~ 終戦の聖断を引き出した老宰相』 国際派日本人養成講座 (動画+読み物)

軍の強硬派を抑えて秩序ある降伏を実現するため、鈴木貫太郎は細心の注意を払い、天皇のご聖断を仰いで戦争を終結させました。この時の天皇の御歌、また「国体」という言葉の深い意味についても解説。

さらに学ぼう

『書・掛け軸』、『装飾品、愛用の品』 野田市ホームページ

平和な世が続くことを願っていた鈴木貫太郎の書や空襲の際に焼けた勲章などを紹介。終戦時に自宅を襲撃されて焼損した時計などを見ると、鈴木貫太郎がやり遂げたことはまさに命懸けだったことが実感できます。

『【阿南惟幾の生涯】日本敗戦の八月一五日、自決を遂げた時の陸軍大臣。悲劇の主役として、戦史の最終章に登場した軍人』 祖国日本(9分)

ポツダム宣言受諾を決定した御前会議のあと、阿南(あなみ)陸軍大臣は鈴木貫太郎の部屋を訪ねました。二人が交わした言葉に胸を打たれます。

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