雄大な風土で花開いた歌境 ――研ぎ澄まされた感性で歌を詠む・大伴家持

四季折々の風物に触発されて
「令和」への御代替わりから一年余り。「令和」は歴史上初めて国書(日本の書物)を出典とした元号です。しかも、天皇から名も無き民まで、あらゆる階層の人々の歌を集めた国民的歌集『万葉集』から選ばれたことに、私はいっそう誇らしさを感じます。
『万葉集』に収められた4500余首のうち、一割弱にあたる337首が、「越中万葉」と呼ばれ、現在の富山県及び石川県能登地方で詠まれています。越中でこれほど多くの歌が詠まれたのは、『万葉集』を編纂した中心人物とされる大伴家持が、国守として現在の富山県高岡市に約5年間滞在したからです。
国守とは、その地方における役人のトップを指し、責任の範囲は行政のほか、警察・司法などすべての分野に及びます。家持は仕事やプライベートでお訪れた越中全域で、歌を残しているのです。
天平18(746)年、越中国に赴任した家持は29歳。大和朝廷以来の武門の名家・大伴家を担う新進気鋭の青年貴族でした。その彼を、悲しみが襲います。都から、弟の書持の訃報が届いたのです。兄弟は大変仲がよかったと伝えられており、家持は悲嘆にくれました。
その家持の悲しみを癒したのが、越中の豊かな自然でした。美しくも峻険な立山連峰が、澄んだ空に聳え立つ姿は実に雄大で、まるで神が宿っているかのよう。その山々の岩かげから滴り落ちた水が集まって急流をなし、やがて大地を潤して日本海に注ぎます。岩に波が打ち寄せる雨晴海岸(高岡市)。そこから海越しに臨む立山は、夏でも山頂に雪を戴いています。
当初は「この荒波を書持に見せてやりたかった」と感傷にひたる家持でしたが、越中の豊かな自然に抱かれ、さらに都との風土や季節感の違いを実感することで、彼の瑞々しい感性が躍動しはじめます。驚きと感動に満ちた日々が、家持に次々と傑作をもたらしたのです。彼の代表歌の一つは、ここ越中で詠まれました。
春の苑 紅にほふ 桃の花 下照る道に 出で立つ少女 (春の園は美しく輝くように桃の花が咲き、その薄紅色が木の下まで照り映える道に現れ、たたずんでいる乙女よ)
春待つ心は雪月花に溶け込んで
家持が待ちこがれた日が近づいてきました。任期後半、妻がついに都から越中にやってくるのです。その少し前、家持は次の歌を詠み、愛する妻がそこにいない切なさと、もうすぐ会えるという喜びを表現しました。家持の心は、雪深いこの地で暮らす人々の、春を待つ心と一つになり、溶け込んでいきます。
雪のうへに 照れる月夜に 梅の花 折りて贈らむ 愛しき児もがも (降り積もった雪の上に月が照り輝く美しい夜、こんな風流な夜には、梅の花を折って愛しい人に贈りたい。そんな相手があればよいものを)
和歌の代表的なモチーフ「雪」「月」「花」が、日本人の美意識として定着したのは平安時代です。唐の詩人・白居易(772~846)の「雪月花の時、最も君を憶う」(雪の朝、月の夜、花の咲き匂うとき、四季折々の風雅な眺めを見ると、友のことが思い出されてならない)という詩が日本に伝わり、平安貴族が憧れたのです。
しかし家持がこの歌を詠んだのは、白居易が生まれる前。しかもこの歌は、「雪」「月」「花」がすべて一首のうちに詠み込まれていて、家持のオリジナリティが光ります。日本人の美意識は、大陸の文化の影響を色濃く受けたものだと解釈されてきましたが、その源流は、万葉の天才歌人にあったのですね。
ところで、梅は百花に先がけてまだ寒い時期に花を咲かせます。その梅を春の季語にした日本人の感性って、ステキだと思いませんか? まだ寒い時期に咲く梅の花を見て春の訪れを感じる、つまり幸せから遠いように見えるところにも幸せの予感が宿っている、そう感じ取ってきたのが私たち日本人なのです。
今が幸せじゃないと思っている人がいたら、伝えてあげたいですね。「幸せは、もう始まっていますよ」と。
出典:『れいろう』令和2年7月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より