樋口季一郎

概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう 

樋口季一郎(ひぐちきいちろう) 1888(明治21⁾年~1970(昭和45)年
旧日本陸軍の軍人で最終階級は中将。樋口季一郎は二つの特筆すべき働きで知られています。一つは欧州で第二次大戦が勃発する前夜の昭和13年(1938年)にナチス・ドイツに迫害されシベリヤまで逃れてきたユダヤ人約二万人を人道的判断でハルピン特務機関長として満州国のビザを発給し輸送列車を手配して上海へ逃がしています。上海には西欧列強の租界がありそこにたどり着ければ米国などへの移動ルートが確保できたのでした。二つ目は日本の終戦直前の昭和25年8月9日にいまだ有効であった日ソ中立条約を破って対日参戦してきたソ連軍に対する自衛戦争です。ソ連軍の武力侵攻は終戦の8月15日を過ぎても続き、日本領土である南樺太や千島列島を経て北海道占領をうかがう勢いでした。この状況を見て樋口季一郎はソ連軍にたいして断固として反撃を命じ最終的にはソ連軍の停戦(降伏)を受け入れますが北海道までの進撃を企図していたソ連軍の進撃は頓挫して北海道占領は阻止されました。

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もう一人の「東洋のシンドラー」: 2万人のユダヤ人を救い、北海道を守った樋口季一郎陸軍中将  nippon.com

樋口季一郎は1888年8月20日に兵庫県淡路島に生まれ、その後大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て明治42年、22歳で陸軍士官学校を卒業します。さらに陸軍大学校に入りエリート軍人の道を進みました。軍人としての前半はロシア語が堪能であったことからウラジトストク特務機関、ハバロフスク特務機関長やポーランド駐在武官、関東軍司令部付ハルピン特務機関長等を歴任して主に情報将校として歩みます。1938年3月ハルピン特務機関長の時に「オトポール事件」と呼ばれるユダヤ人難民問題に直面しました。これはドイツを逃れた多数のユダヤ人難民がソ連領シベリヤ鉄道・オトポール駅まで逃げて来ていました。シベリヤ鉄道・ザバイカル線のソ連側終着駅がオトポール駅でしたが、路線は更に満州国側まで伸びていました。しかし国境を超えることが出来ずそこで足止めになっていたのでした。樋口季一郎は独断で越境を認め更に食事の提供までしました。当時、日独防共協定を結んで同盟国であったドイツを満州国や満州に駐留する関東軍が慮った事情がありました。ユダヤ難民らは満州国ハルピンから上海を経て米国等へ逃れていきました。このルートはヒグチルートと呼ばれ、その後も多くのユダヤ難民が逃れていきました。大東亜戦争(太平洋戦争)が始まると樋口は開戦翌年の1942年8月に少将として北東太平洋の陸軍を指揮する北方軍・第5方面軍司令官として司令部のある札幌に着任しました。しかし米国領アリューシャン列島にある指揮下のアッツ島守備隊は1943年5月に玉砕しました。一方それより東にあるキスカ島は海軍艦艇の協力もあり陸軍・海軍部隊とも全員が撤収に成功しました。しかし日本の降伏直前の1945年8月10日ソ連は日ソ中立条約を破棄して参戦し日本領の南樺太、千島列島へ侵攻しました。この侵攻は8月15日の日本降伏後も続きました。ここに至り樋口少将は終戦の詔書が出された後の8月18日に千島列島北端の占守島に侵攻したソ連軍に対し断固自衛戦争を指令し激しく抗戦しました。結果的に日本軍は降伏しますが占守島で時間を浪費したソ連軍は北海道占領を諦め北方四島の線で止まりました。樋口少将はソ連の北海道上陸を阻止し、日本本土分断を防いだと言えるのではないでしょうか。

②樋口季一郎の言葉にふれよう →TOP

占守島の戦い〜日本の命運を決めた士魂部隊〜   歴史じっくり紀行

オトポール事件の起きる前年(一説には同年1月)満州国ハルピンにて「極東ユダヤ人大会」が開催され二千名が集まりました。来賓として招待された樋口季一郎は演壇に立ち、「20世紀の今日、ユダヤ人に対する追放を見ることは、人道主義の名において、また人類の一人として、私は心から悲しまずにはおれないのである。ユダヤ人を追放する前に、彼らに土地を与えよ。そしてまた祖国を与えなければならないのだ。」と訴えユダヤ人の心を打ちました。この背景には明治維新期の不平等条約以来の日本国民の列強に対する国家間、民族間の平等を求める強い欲求がありました。1919年に第一次世界大戦後のドイツとの講和会議が開催され日本は戦勝国して招待されました。講和会議では新たな国際体制として国際連盟が提案され日本は常任理事国とされました。その国際連盟最終委員会で日本は連盟規約に「各国の平等及びの国民に対する公正待遇の原則」を盛り込むことを提案し多数の賛成を得ましたが議長である米大統領ウイルソンの「このような重要事項に関する提案には全会一致を要する」として否決されました。このような国際的平等を求める日本国民の悲願が樋口中将の胸の内に流れておりその悲願がユダヤ人対する思いとなって「極東ユダヤ人大会」での言葉、更に「オトポール駅」での迅速かつ断固たる決断に至ったのではないでしょうか。
樋口少将はもちろん軍人ですので戦いの場に立った場合にもその行動は迅速かつ断固としたものでした。占守島に侵攻したソ連軍に「断固として仇敵を殲滅せよ」と徹底抗戦を命令しました。その命令を現地部隊はすぐさま実行に移し徹底した反撃を実行しました。日本は終戦の混乱中で樋口少将の統率力がいかに優れたものであったかが彷彿とされます。

 

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2万人のユダヤ人を救った樋口少将(上)(下)  note 国際派日本人養成講座

樋口少将とユダヤ人とのかかわりはこちらのページでも詳しく紹介されています。

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樋口季一郎記念館

北海道石狩市にあります。

関連書籍

「樋口季一郎回想録」啓文社  樋口季一郎著
「流氷の海:ある軍司令官の決断」光人社NF文庫 相楽俊輔著

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