安重根

安重根(あんじゅうこん アン・ジュングン)1879~1910 朝鮮の両班の家に生まれ幼いころより教育を受けフランス語を学ぶなど見聞を広めたようです。日露戦争後私財を投じて学校を設立し韓国独立の士を養成しようとしました。そして、1909年仲間と図り日本の元総理大臣で元韓国統監であった伊藤博文をハルピン駅で暗殺し翌年死刑判決を受けて刑死しました。日本では要人を暗殺したテロリストですが、韓国では韓国独立のために働いた義士、英雄と評価されています。肖像はウィキペディアより引用。
①安重根の足跡をたどろう
朝鮮を取り巻く内外の情勢
この時代の朝鮮半島を巡る国内外の情勢を前提としなければ安重根が伊藤博文を暗殺した背景は理解できないでしょう。そのため以下にこの時代の朝鮮半島を巡る情勢について記しておきます。
明治維新前後の朝鮮半島では大院君のもとで攘夷をかかげ中華王朝に忠誠を誓う体制にありました。いち早く開国し近代化を進め始めた日本は旧来の朝鮮とのつながりもあり、徳川幕府に代わる新しい政府ができ西欧に対して開国した旨の国書を送りましたが朝鮮側は受け取りを拒否しました。その後、朝鮮半島では以下のような事件・混乱が起こります。
1975年(明治8)江華島事件
日朝の国交交渉中、日本の軍艦雲鷹が清国へ向かう途中飲料水の補給のため現在のソウル市の西にある江華島近づいたときに島より砲撃を受け応戦しました。これを機に翌年日朝修好条規が締結されました。その内容は①釜山はじめ3港の開港と②朝鮮における日本の領事裁判権③朝鮮の独立(清国の宗主権の否定)でした。
1882年(明治15)壬午軍乱
兵士の反乱が起きました。この時朝鮮では国王高宗の王妃閔妃(びんひ)を中心とする閔妃政権は開国後日本の支援のもと開化政策を進めていました。これに不満を持つ兵士や民衆が朝鮮政府や日本人を襲い、閔妃は王宮を脱出して清国を頼りました。日本の花房領事もかろうじて脱出してイギリス船に救助され長崎に帰国しました。朝鮮では失脚していた国王高宗の父の大院君が復活します。しかし、朝鮮国内の混乱を見た清国は軍隊を大院君のいる王宮に入れ、大院君を捉えて清国に送りそこで幽閉し、閔妃が政権に復帰します。日本と朝鮮は済物捕(サイモッポ)条約を結び日本への賠償等が決まりました。
1884年(明治17)甲申(コウシン)事変
金玉均ら急独立党が日本をモデルに朝鮮を独立にもっていこうとするクーデター事件が発生しました。独立党は日本軍の援助のもと王宮を占拠し実権を握りました。しかし清国軍がすぐに反撃し独立党を攻撃、日本軍も撤退し金玉均らは日本へ亡命しました。この結果1885年に日清間で朝鮮に関する天津条約が結ばれました。この条約の結果、①日清両国は朝鮮から撤兵、②両国は朝鮮に軍事教官を派遣しない、③両国は朝鮮に出兵する場合は事前通告する、が決まりました。
1894年(明治27)東学党の乱(庚午農民戦争ともいう)
閔妃の政権により開化派の金玉均が暗殺され、この政権に不満を持つ東学という農民の間に広く支持されていた新興宗教の信者を中心として反乱がおこりました。朝鮮半島は大混乱におちいります。閔妃の政権は清国に頼り反乱を鎮めようとしますが、日本はこれを嫌い王宮を占領して高宗の父の大院君を復権させ開化派の政権を誕生させます。
1894~1895年(明治27-28)日清戦争
東学党の乱を自力で鎮圧できない朝鮮政府は清国に来援を求め清国が出兵します。これを見た日本も天津条約に基づき出兵し日清が軍事衝突しました。日本陸海軍は朝鮮半島の清国軍を撃破し鴨緑江(朝鮮と清国の境界河川)を越え遼東半島、山東半島の主要湊を占領し清と朝鮮の間の黄海、清の東北部の渤海湾の制海権を確実にして戦争に決着をつけました。1895年に下関で講和条約が結ばれます。日本は賠償金と台湾、澎湖諸島、遼東半島の割譲を勝ち取りますが、直後に露仏独の三か国による要求が出され遼東半島は手放しました。(三国干渉)しかし、露仏独および英国は中国各地を租借していきます。
1895年(明治28)乙未事変(いつびじへん(閔妃暗殺事件ともいう)
1895三国干渉による日本の後退を見た閔妃の勢力はロシア軍を頼りにクーデターを行い開化派や日本の勢力を排除しようとしますが逆に日本人外交官や軍人、開化派朝鮮人らが王宮で閔妃を殺害しました。後、日本人関係者は裁判にかけられます。これらの背景には朝鮮王朝内の閔妃と大院君が日本、清国、ロシアのその時々の勢いのある国を頼って自身の権力を保持しようとした背景があるとされています。
1904~1905年(明治37-38)日露戦争
朝鮮を巡る日露の対立は1904~1905年の日露戦争となり爆発します。1900年には日英同盟を締結して日本はロシアとの戦争に備えていました。日本軍はソウル近郊の仁川に上陸しさらに北を目指しロシアの租借地であり軍事基地であった旅順を激戦の後に陥落させました。そして要衝の奉天で日露が激突しこの地を占領しロシア軍は北に後退しました。海ではでは遠くヨーロッパのバルト海から回航されたロシアバルチック艦隊を長崎県対馬沖で迎撃し勝利しました。そしてアメリカ大統領セオドラ・ルーズベルトの仲介でアメリカのポーツマスで講和条約が結ばれました。この講和条約の主な内容は以下のようなものでした。
・日本の朝鮮に対する優越権
・樺太の南部を日本に割譲
・日露両軍は満州から撤退するがロシアが満州に有していた権益は日本に譲渡
・賠償金はなし
1907年(明治40)ハーグ密使事件
日露戦争さ中の1904年韓国がロシアになびくことを防ぐために第一次日韓協約、日露戦後の1905年には日本勝利により、各国より朝鮮の支配権を認められた日本は第二次日韓協約を結び内政外交に日本の指導を強制しました。このような状況下で1907年ハーグ密使事件が起きます。これはオランダのハーグで開催されていた第二回万国平和会議に高宗が特使を派遣して各国に日本の非を訴えたのです。しかしこの訴えは無視され逆に日本の韓国支配権が認められる結果となってしまいました。朝鮮・韓国には自ら自分の国を統治する力が乏しいと見た日本は1901年8月韓国併合条約で日本との併合を決めました。
韓国併合と伊藤博文の暗殺 文明の伝道師はなぜ殺されたのか? 戦国BANASHI【ミスター武士道】
現在の北朝鮮の地にある黄海道海州府の両班(ヤンバン)の家に三男一女の長男として生まれました。体にホクロが7か所あったために應七(ウンチル)と称し、重根を使用したのは伊藤博文殺害の直前であったとされています。しかし以下は安重根で統一します。両班とは朝鮮王朝時代の支配階級で支配地では徴税や物品の収奪などの特権を有していました。教育熱心な祖父の仁寿により6歳で漢文学校、その後普通学校で学ぶもこの時期の重根は学業が性に合っていなかったらしくもっぱら狩猟や飲酒、歌舞などの遊興にふけていたらしい。1894年に16歳で金氏を妻に娶り二男一女をもうけています。この年、東学党の乱(庚午農民戦争ともいう)が発生して国内が大混乱におちいります。父の泰勲は東学党が外国人や官吏を殺害するなどしたために自警団を組織して避難民や宣教師を保護したと言われています。しかし翌年が東学党より奪った糧食がもとは年貢米だったので国庫米の掠奪として訴えられますが政権側からも追及されます。カトリックに改宗していた泰勲はフランス宣教師に匿われ、その縁で重根も17歳で洗礼を受け改宗します。この間の安重根の動静は詳らかではありませんがフランス人神父よりフランス語を学び見聞を広めましたが「外国語を学ぶものはその奴隷になる」として辞めてしまいました。しかし1906年には私財を投じて三興学校と敦義学校を設立し韓国独立の士を養成しようとしました。そのためにいくつかの事業で資金調達を試みますがうまくいかなかったようです。1909年には同志と「絶指同盟」を結成して指を切った血で大極旗に「大韓獨立」の文字を書いて伊藤博文や日韓協約に重要な役割を果たした李完用らを暗殺する計画をしたと言われています。その一方で新聞紙面で大韓帝国の国権回復を訴えたりしました。そして、同志三人と伊藤博文を暗殺する計画を立てます。1909年10月26日ロシア蔵相ココツェフとと会談するためにハルピン駅を訪れた伊藤博文に拳銃を発砲し暗殺しました。当時ハルピン駅を含む鉄道の権益はロシアが有していましたので安重根はロシア側の官憲に逮捕され日本側に引き渡され裁判にかけられました。裁判の結果は死刑判決でした。他の二人は懲役3年と1.5年でした。安重根は獄中で「獄中記」と呼ばれる自伝を書きあげました。自分の生い立ちや暗殺実行に至る経緯を綴ったものです。さらに「東洋平和論」を書き始めますが序文のみで終わっています。このような安重根の姿勢に日本人看守らも心を動かし何かと便宜を図ったとされています。処刑日は1910年3月26日でした。以下の動画に朝鮮を巡る動きと伊藤博文暗殺の背景が解説されています。前述の朝鮮を取り巻く内外の情勢とともに理解を深めてください。
②安重根の言葉に触れよう
安重根「東洋平和論」
獄中で書いた「東洋平和論」には日露戦争に対して清や朝鮮がどのように対応したのか、そして日本への思いが赤裸々につづられています。「数百年前から ヨーロッパの色々な国々は道徳を全く忘れ、日々 軍事的な力を蓄え、互いに争うことを 少しも憚ることなくなり、その中でも ロシアが最もひどい」日露戦争では「韓国と清 両国の国民は日本に反対することなく、返って日本軍隊を歓迎し、道を磨いて荷物を運んで情報を知らせるなど 勢いよく日本を手伝ってやった」と述べ西洋の侵攻に対して東洋が協力して「数百年以来で先に立って悪い仕業をした白人種の行った無理を日本が一気に打ち破った」ことが痛快であると述べています。そのように思いを寄せていた日本でしたが「日本が勝利した後に最も近くて最も親しくて善良で弱そうな人種である韓国を力で押えつけ、強制で条約を結んで, 満洲の長春を、他の地を借りるという言い訳のもと占領しまった」
と日本に裏切られたという感情を持ちます。伊藤博文には当時の厳しい国際環境の中で韓国を日本の保護の元で自立させようという方針があったのですが安重根には通じていません。安重根は明治天皇の名で出された日露開戦の詔勅を「日本の天皇はこの戦争が東洋平和を維持し、大韓の独立をしっかりするためだと言った. 韓国と清の人々はこの言葉を少しも疑うことがなかった」と述べ明治天皇の意志に反して伊藤博文が韓国の独立を奪おうとしており、その伊藤を「東洋平和のための正義のあるけんかをハルビンで始め」たとして暗殺しました。伊藤博文は当時の朝鮮を日本の保護の下で自立させようとしたのですが安重根は伊藤こそが明治天皇と日本国民の意志に反して東洋平和を攪乱する元凶ととらえています。日韓両国にとって不幸な事件となりました。
④さらに学ぼう
関連書籍
以下の本は日本韓国に偏らない比較的中立的な立場で書かれています。
「韓国の悲劇」 小室 直樹 カッパ・ビジネス
「伊藤博文と安重根」 佐木 隆三 文春文庫
「韓国人が知らない安重根と伊藤博文の真実」金 文学 祥伝社新書
明治,思想家,A.K