畠山重忠

畠山重忠(はたけやましげただ) 1164(長寛2)~ 1205(元久2)
鎌倉時代の武将。武蔵国に生まれる。源頼朝が挙兵した石橋山の戦いでは頼朝に敵対したが、のちに帰服。源平合戦ではさまざまな逸話を持っているが、源義仲追討などで武功をたて、その後の奥州征伐でも活躍した。北条時政とその女婿・平賀朝政に謀反の疑いをかけられて北条側の大軍と戦って敗れ、討死した。
左は畠山重忠公史跡公園にある畠山重忠像。昭和63年建立。源平の一ノ谷の合戦の「鵯越の逆落とし」で畠山重忠が馬を背負った姿を表現している。
①畠山重忠の足跡をたどろう
畠山重忠の生涯 北条氏によって悲劇の最期を迎える武士の鑑【鎌倉殿の13人】 RekiShock レキショック 日本史情報発信中!
畠山重忠はその武勇と清廉潔白さから「坂東武士の鑑」とまで呼ばれました。源頼朝の信頼も厚い武将で謀反の疑いを受けることがあってもその信頼は揺るぎませんでした。しかし、頼朝の死後は執権・北条氏の野望に巻き込まれていきます。
【鎌倉殿の13人】畠山重忠の生涯とゆかりの史跡~誕生から非業の最期まで 幻冬舎ルネッサンス 武将の道
武勇の誉れ高い重忠は「坂東武士の鑑」と称されました。源頼朝の挙兵に際して当初は敵対していましたが、のちに従い源平争乱や奥州合戦では先陣を務めるなど活躍。鎌倉幕府では有力御家人として源頼朝から大いに信頼されました。しかし、源頼朝の没後に初代執権・北条時政らの謀略によって謀反の疑いをかけられます。
②畠山重忠の言葉にふれよう
畠山重忠の「カッコ良すぎる名言」から分かる、鎌倉武士と江戸武士の価値観の違い デイリー新潮
「謀反を企てんと欲するのよし風聞せば、かえって眉目というべし」―これは「謀反を起こすと思われるのは、むしろ武士にとって名誉(眉目)なことだ」という意味です。鎌倉時代の中世武士は不当な扱いを受けた主君に対して謀反を起こすことも辞さないという独立心と自尊心を持っていました。
さらに学ぼう
埼玉県立嵐山史跡の博物館
史跡「菅谷館跡」があります。この菅谷館の主である畠山重忠をはじめ鎌倉時代・戦国時代をテーマとして出土資料などを展示。中世の埼玉県域の歴史を再現しています。
畠山重忠ゆかりの地 三浦半島日和
重忠が活躍した鎌倉には重忠邸跡があり、当時は武蔵国の一部だった横浜にも重忠の子・重保の墓・供養塔などゆかりの地がたくさんあります。
坂東武士の鑑・畠山重忠の生誕地と終焉の地を巡る さんたつby散歩の達人
埼玉県深谷市の生誕地から嵐山町の菅谷邸跡を経て鎌倉、そして終焉地となった横浜市旭区の二俣川までを巡る旅です。
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