井伊直弼

概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれ生き方に学ぼう さらに学ぼう 

井伊直弼(いいなおすけ)1815(文化12)年~1860(安政7)年
井伊直弼は江戸時代の譜代大名の筆頭であった彦根藩の第13代藩主でした。後に大老となって幕府の政治を指導します。当時、日米和親条約によって開国をした日本に対してアメリカは通商を迫ります。井伊直弼は開国政策を進めるため日米修好通商条約を結びますが国論を二分する騒動が起きます。井伊直弼はこれを安政の大獄と呼ばれる徹底的な弾圧で応えます。そして江戸城に登城の途中、桜田門付近で反対派に襲撃され44歳の生涯を終えました。左肖像狩野永岳筆 彦根城博物館蔵(部分)。

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井伊直弼は何をした人?政治への関わりから生涯まで詳しく解説【親子で歴史を学ぶ】 HugKum

1815(文化12年)に彦根藩主・直中(なおなか)の14男として彦根城内で生まれています。彦根藩井伊家は何人もの幕府大老を輩出した譜代大名の筆頭でした。直弼誕生の時50歳の父直中は既に家督を3男の直亮(なおあき)に譲っておりしかも直弼は側室の子でした。兄弟が多く側室の子であった直弼には表舞台に出る可能性はほぼありませんでした。事実17歳になった直弼は部屋住みとして藩からあてがわれた屋敷でわずかな手当てをもらって過ごしていました。ところが直亮には子供がおらず、直中の11男・直元(なおもと)を養子に迎え藩主として跡を継がせる予定でしたが藩主になる前に病死してしまします。
そこで、部屋住みの直弼が直亮の跡継ぎに指名され1850年35歳で彦根藩主に就任しました。直弼は藩主として藩政の改革に取り組み名君として名を馳せます。やがて幕政にも関わり開国を進言するなど幕府政治の中で存在感が高まりました。
1853年アメリカのペリー提督が浦賀に来航し開国を迫りました。翌年再来航したペリー提督との間で日米和親条約が調印されました。この条約は遭難者の保護や薪水・食料の補給などを定めた基本条約でした。その後幕府はイギリス・ロシア・オランダとも和親条約を締結しました。この時点では外国船への燃料や食料の提供にとどまり通商貿易は行いませんでした。
 しかしアメリカはこれに満足しません。一方、幕府はオランダと結んだ日蘭和親条約には貿易の内容を追加条項として盛り込みました。オランダとは長年にわたり貿易をしていましたのでこれをオランダとの和親条約に追加することは当然の事でした。これを知ったアメリカ総領事ハリスは幕府に貿易を要求します。当時の幕府は欧米列強への対応、病弱であった将軍・家定の後継探しなど多くの難問を抱えていました。
 1858年に井伊直弼はこうした難問を解決できる家柄・能力を備えた人材として、徳川幕府の大老に就任しました。大老とは臨時に設けられた職制で通常の幕府政治の責任者である老中の上位の立場で将軍に次ぐ強い権限を持っていました。直弼は大老就任直後条約調印やむなしとして調印を強行しました。これは朝廷の許し(勅許=ちょっきょ)は得られないままでした。日米和親条約では幕府は事後に朝廷へ通告しましたが日米修好通商条約では事前に相談していました。 更に将軍後継として紀州藩主の徳川慶福を徳川家茂として第14代将軍として擁立しました。
 幕府のこれらの政策に対して薩摩藩や長州藩、福井藩、更には水戸藩などが反発します。直弼は幕府反対派の水戸藩の家臣や長州藩の吉田松陰、福井藩の橋本佐内らを処刑するとともに多くの志士を投獄しました。(安政の大獄)日米修好通商条約の締結は前任者の時になされ、勅許がえられないまま直弼の大老就任となりました。井伊直弼は何とか勅許を得ての調印を目指したようですがアメリカの圧力があり調印やむなしと判断したようです。しかし幕府政治の責任者として批判される立場にあった井伊直弼に対する恨みは大きくなっていきました。
そしてついに1860年(安政7年)3月の大雪の日彦根藩邸から駕籠で江戸城へ登城する途中の桜田門外で水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士1名が井伊直弼の行列を襲撃し暗殺しました。白昼に幕府の大老を暗殺するというこの事件をきっかけに幕府の権威は失墜し尊王攘夷運動と呼ばれる討幕へとつながる動きや外国との衝突が起きるなど物情騒然とした世相のなかで、この事件の7年7カ月後に大政奉還がなされ翌年に江戸開城により新しい明治の世を迎えることになります。

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井伊直弼の生涯  埋木舎

井伊直弼が彦根藩主となるまでに過ごした屋敷をみずから「埋木舎(うもれぎのや)」と呼んでいました。部屋住みの身で大望を抱くことも出来ない環境のもとでくらしていました。その折に以下の和歌を詠んでいます。

「世の中をよそに見つつも埋もれ木の埋もれておらむ心なき身は」
世間がどうなっているかはよそに見て、土の中の埋もれ木のように、誰にも知られず埋もれて暮らしていこう。このような身なのだから。
 しかし藩主に就任して後は矢継ぎ早の改革を実行して幕府内で存在感を急速に高めていきます。埋もれ木のように埋もれていても決して枯れてはいませんでした。
直弼は桜田門外の変の二ケ月前に自身の肖像画を描かせそこに和歌一首を添えました。
「あふみの海磯うつ浪のいく度か御代にこころをくたきぬるか那」
近江の海(琵琶湖)に波が磯に繰り返し打っては返すように自分は世のために心をつくしてきたことよ。しかし直弼はこの歌で以下のような心の叫びがあったのではないでしょうか。
天皇のいらっしゃる京都に通じる波静かな琵琶湖に通商を求めて来航する外国船が引きも切らず、荒波が立っている。そのような天皇の御代に自分は誠心誠意心を砕いて立ち向かっているというのに(なぜ分かってくれない)。さらに暗殺により命を落とす前日にも和歌を詠んでいます。
「咲きかけしたけき心の花ふさは ちりてぞいとど香の匂ひぬる」
 咲きかけた(自分の)強い心の花の房は散ってこそ強い香りが匂ってくるものよ
 政争の真っただ中にあってあたかも自分の死を予見したかのような、なんのわだかまりもない正に明鏡止水の心境ではないでしょうか。外国の圧力と弱体化する幕府、それを見越した諸藩の動きの狭間で直弼は外面的には強権を用いて強行突破を図りますが結果は壮絶な死でした。直弼の政策の是非はともかく彼の透徹した精神は学ぶべき対象ではないでしょうか。

 

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彦根城博物館

彦根城博物館には井伊家歴代の資料等が展示されています。

桜田門外で井伊直弼を襲ったのは水戸藩の脱藩浪士17名と薩摩藩士の有村治左恵衛門でした。襲撃により瀕死の状態の井伊直弼の首を最後に切り落としたのは有村治左衛門でした。彼は井伊直弼の首を刀に突き立てて引き揚げたが追いかけてきた彦根藩士に切られ最早これまでと自決しました。井伊直弼の襲撃に呼応して有村治左衛門の兄の有村雄助は水戸藩浪士とともに尊王攘夷運動のため京都へ向かいますが、幕府の追及を恐れた薩摩藩は途中で有村雄助を捕らえ薩摩へ護送します。鹿児島では雄助の盟友が助命を嘆願しますが許されず切腹を命じられました。有村雄助、治左衛門兄弟の母は蓮寿尼という歌人でした。その母が最愛の兄弟二人を若くして相次いで亡くし次の歌を詠んでいます。
「雄々しくも君につかふるますらをの母てふものはかなしかりけり」
雄々しく天皇(あるいは藩主)に使える武士(ますらお)の母というものは悲しいものだ。息子二人を雄々しいますらをと誇らしげに称え、それでも母の悲しみに胸せまるものがあ
ります。この和歌は薩摩藩内で人口に膾炙され討幕への大きなうねりとなりました。

埋木舎

埋木舎(うもれぎのや)は、国指定の特別史跡です。井伊直弼が、17歳から32歳までの15年間を過ごした屋敷(藩公館)でした。直弼は11代藩主井伊直中の14男で側室の子だったので、12代藩主直亮の時代には彦根城の御殿を出て、城外のこの尾末町屋敷で質素な生活を送らねばなりませんでした。

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