石田三成

石田三成(いしだ みつなり)  1560(永禄3)年~1600(慶長5)年
安土桃山時代の武将。近江国(滋賀県)の土豪の次男として生まれた。15才の頃、長浜城主・羽柴(豊臣)秀吉に利発さを認められ、近侍として仕える。中国征伐、山崎の戦い、賤ヶ岳の戦い、文禄・慶長の役などに従軍して功績をあげた。
また秀吉が行った太閤検地を中心となって推進するなど行政的な手腕に秀で、五奉行の中でも最高実力者として政務処理にあたった。
後、佐和山城主になると領内の民政に尽力した。
秀吉の死後、徳川家康の権勢が高まって豊臣家を脅かす存在になると、毛利輝元、宇喜多秀家らとはかって家康に対抗し、1600年、関ヶ原の合戦に臨んだが、小早川秀秋の裏切りによって敗北し、捕らえられて京都六条河原で処刑された。享年41才。

①石田三成の足跡をたどろう

『石田三成の生涯を10分で簡単解説【日本史マンガ動画】』  連載終了漫画家・徳永サトシ徳永サトシ(10分)

豊臣秀吉と秀頼に忠義を尽くし、徳川家康と戦って処刑された石田三成の生涯をわかりやすく解説。

②石田三成の言葉に触れよう

『主君に気配りするのを忘れない。日本屈指の忠臣・石田三成の名言』 FUNDO 

重要な役職を歴任した石田三成ですが、財産はほとんでありませんでした。その驚きの理由とは…。また石田三成が用いた変わった家紋の意味とは…。

『まっすぐに生きた男、石田三成の名言』 歴史上の人物

関ヶ原の合戦後に捕らえられた石田三成が、西軍を裏切った小早川秀秋に対してかけた言葉や辞世の歌などを紹介しています。

③石田三成の生き方から学ぼう

『石田三成、その人物像とは』 滋賀県ホームページ

「相手を思いやる心」と「自分のやり方を貫くこと」。石田三成にはこの二つの強い信念がありました。

『領地は武士の生命線…石田三成と渡辺勘兵衛の絆を結んだ500石のエピソード』  歴史屋

豪傑・渡辺勘兵衛を何としても家臣として召し抱えたい石田三成が勘兵衛に申し出たとんでもない提案とは…。石田三成の真意と主従の絆は感動的です。

さらに学ぼう

『三成ゆかりの地めぐり』  滋賀県ホームページ

秀吉との出会いの地とされる観音寺、関ヶ原の合戦の敗戦後、隠れ潜んだ「大蛇の洞窟」などを紹介。

『徳川家康と石田三成は仲良し!三成の子供が助命された理由とは?』  おもしろ歴史博物館(16分)

関ヶ原の合戦後、石田三成の子供たちはみな助命されました。合戦前の三成と家康の関係、三成の子供たちのその後の運命はどのようなものだったのでしょうか。

『石田三成はなぜ「嫌われ役」となったのか』  WEB歴史街道

千利休の切腹など、数々の陰謀の黒幕ともいわれる石田三成。しかしその証拠はなく、徳川幕府が幕府の正当化のため、家康と戦った三成を貶めていったと考えられます。

滋賀 安土桃山 武将 KY

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