カール&エリーゼ・ユーハイム

カール・ユーハイム 1886~1945年。  エリーゼ・ユーハイム   ~1971年。
カール・ユーハイムはドイツ出身の菓子職人。ドイツの租借地であった清国の青島市で第次世界大戦に遭遇し日本軍の捕虜として来日しました。捕虜生活の中で日本人の口に合う洋菓子を製造販売して好評を得、その後日本に永住して東京銀座、横浜を経て神戸で妻のエリーゼと協力して喫茶店「JUCHHEIM'S」(ユーハイム)を開店して洋菓子の製造販売を行いました。

①ユーハイム夫妻の足跡をたどろう

神戸偉人伝外伝 ~知られざる偉業~㉔㉕ カール・ユーハイム 月刊神戸っ子

1886年にプロイセン王国(後のドイツ帝国)に生まれ22歳の時に清国のドイツ租借地である膠州湾の青島市で菓子職人をするとともに喫茶店を開業しました。1914年にドイツ、オーストリア、トルコ=オスマン帝国とフランス、ロシア、英国等との間の第一次世界大戦が始まります。英国と同盟を結んでいた日本は英国側の連合国として参戦し、ドイツ領の青島を攻撃、1914年9月に日本軍は占領します。この時ユーハイムは軍人ではなかったのですが日本軍の捕虜となり、大阪の俘虜収容所に収容されました。1917年2月にインフルエンザ予防のために広島県の似島検疫所に移されます。このインフルエンザはまもなくスペイン風邪として世界的に猛威を振うこととなります。広島ではドイツ人捕虜の諸作品を展示即売する催しが開催されました。当時の日本では各地に俘虜収容所が設けられますが収容者は生活のために比較的自由に活動でき、施設外へも出入りできました。ユーハイムもバームクーヘンなどのドイツ菓子を作りました。青島時代から日本人の好みをよく知っていたユーハイムはバターを控えるなどして日本人向けにアレンジした菓子を考案して販売しました。これらの菓子は好評でよく売れました。1918年に戦争が終わると故国には帰らず青島にいた妻と息子を日本に呼び寄せ明治屋の社長磯野長蔵が東京銀座に開店した喫茶店の「カフェー・ユーロップ」で製菓部主任として働き始めました。1922年には独立し横浜で「E・ユーハイム」というレストランを夫婦で開業しました。この店は繁盛しましたが1923年の関東大震災で焼失し、知人を頼って神戸三宮で新たに喫茶店「JUCHHEIM`S」(ユーハイム)を夫婦で開店しました。この店も繁盛します。しかし日中戦争が始まった1937年にはヨハイムの精神状態が悪くなりドイツに帰国して治療した再度来日するも以前の元気は取り戻せませんでした。さらに1941年にはアメリカ・英国と戦争となり1945年の終戦となります。カール・ユーハイムが亡くなったのは終戦の前日の8月14日でした。妻のエリーゼはその後占領軍によりドイツに強制送還されます。しかしカールの弟子の日本人3名が店の復興を目指して神戸に「ユーハイム商店」を設立しカール夫妻の意志を継ぎます。ドイツに帰国していたエリーゼもこれに合流するために1953年神戸に帰ってきました。1961年には社長に就任してユーハイムを立て直し1971年に亡くなるまで神戸で暮らしました。

② ユーハイム夫妻の言葉にふれ生き方に学ぼう

終戦前日に亡くなったユーハイム創業者が歩んだ激動の人生「お菓子は平和の証」【戦後75年】  Business Insider Japan

広島の捕虜収容所で作ったバームクーヘンを展示・販売したところその形・味が日本人に受け入れられました。カールは「日本に残ってこのドイツ菓子を日本に根付かせよう」と決意して解放後も日本に残り、妻エリーゼも青島から呼び寄せました。事業は順調に思えましたが、関東大震災、日本の敗戦と幾度も苦難に遭遇します。しかしカールの菓子つくりの神髄は弟子たちにしっかりと受け継がれます。弟子たちの意志にエリーゼも「カールの魂を継承しよう…」と合流し「私は死ぬまで日本にいる」と覚悟を決めました。

バームクーヘンに受け継がれるカールの魂  テレ東BIZ

さらに学ぼう

ドイツ人と日本人の板東俘虜収容所で起こった心の交流 ロースハムやユーハイムにまつわるエピソード#02   日本の火力

カールに日本永住を決意させた捕虜収容所とはどんなものだったのか?その一つが動画で紹介されています。

アウグスト・ローマイヤー   宇宙のすべての知識 プリンシピア

カール・ユーハイム以外にも捕虜収容所を経て日本でドイツ食品を根付かせた人がいます。

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