北里柴三郎
北里柴三郎感想文祭り 応募受付中 (令和6年7月1日~令和7年6月30日)
北里柴三郎(きたさと しばさぶろう)1853(嘉永5)年~1931(昭和6)年
明治・大正期の細菌学者。肥後国北里村(熊本県阿蘇郡小国町)の総庄屋の家に生まれ、藩校・時習館に学んだ。熊本医学所を経て東京大学医科大学を卒業、内務省衛生局に入る。85年ドイツに留学してコッホの研究室に入る。ここで破傷風菌の純粋培養に成功し、更に破傷風菌が出す毒素によって症状が進行することを解明、この毒素を用いて当時不治の病とされた破傷風の血清療法を確立した。これらの功績により名声は全世界に広がった。
欧米諸国から招聘(しようへい)が相次いだがこれらを辞して92年に帰国。日本における感染症専門研究機関の必要性を説くと、賛同した福沢諭吉は日本初の伝染病研究所を創設し、北里を所長に招いた。所員に志賀潔らを擁した同研究所は世界でも屈指といわれ、免疫血清・ワクチンの製造、防疫指導、後進の育成にあたった。
94年には香港で流行したペストの調査に派遣され、ペスト菌を発見した。
1914年、研究所が東京大学の付属機関とされたため北里所長ら全職員が辞職、私立北里研究所を創設した。17年慶応義塾大学医学科が創設されると医学科長に招かれ、官学に対する独自の学風を築いた。1917年貴族院議員に勅選。23年日本医師会創立時には会長に就任し、24年男爵を授けられた。東京の自宅で脳溢血により78年の生涯を閉じた。
①北里柴三郎の足跡をたどろう
『北里柴三郎』 NHK for School(3分)
ペリー来航の年に生まれた北里柴三郎は破傷風菌の研究に取り組み、画期的な「血清療法」を考え出しました。
『【ゆっくり歴史解説】北里柴三郎、日本を伝染病から救った英雄』 ふかぼりれきしチャンネル(11分)
ペストが大流行している香港におもむいた北里柴三郎は感染の危険を顧みずに研究を続け、ついにペスト菌を発見して危機をくいとめました。
『【まんが人物伝】予防医学の先駆者 北里柴三郎』 KADOKAWA最強歴史チャンネル(5分)
人生を医学にかけた北里柴三郎の生涯を簡潔に紹介。
『北里柴三郎とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】』 歴史上の人物.com
画期的な血清療法を確立しながら第1回ノーベル賞を逃した意外な理由とは…。
②北里柴三郎の言葉に触れよう
『覚悟が詰まった北里柴三郎の名言』 歴史上の人物.com
「自分の生計を目当てに医者になるものがいる。この悪弊を捨て、医道の真意を理解しなければならない」 北里柴三郎が学生らに語った医道の真意とは…。
③北里柴三郎の生き方から学ぼう
『北里柴三郎は欧米一流大学の誘いを断って、日本国民を救うために帰国した』 国際派日本人養成講座(動画16分+読み物)
明治天皇から「結核で苦しむ国民を救ってほしい」とのお言葉を賜った北里柴三郎は他国からの巨額の報酬を断って帰国し、日本の防疫や後進の育成に多大の貢献をしました。
『[北里柴三郎]福沢、志賀、野口まで….日本の医学を作った知られざる恩送り』 日本志塾・YouTube学園(12分)
福沢諭吉は北里柴三郎への支援を惜しみませんでした。柴三郎は諭吉の死後もその恩に報いようとします。
『北里柴三郎【近代日本医学の父】~志を貫いた研究者~』 人生を変える歴史と古典の教室「新倉塾」(20分)
北里柴三郎は赤痢菌発見という大偉業の功績を弟子の志賀潔に譲り、平然としていました。自身の名声には全く執着しなかったのです。
さらに学ぼう
『北里柴三郎記念館』 熊本県阿蘇郡小国町
博士の遺品や資料を陳列する展示室のほか、生家や北里文庫(郷里の子どもたちのために私財を投じて建設した図書館)などが保存され、見学することができます。
『新紙幣の偉人“ゆかりの地”に行ってみよう!~北里柴三郎編~』 日本気象協会
熊本の北里柴三郎記念館、東京の北里柴三郎記念館、近代医科学記念館、北里柴三郎の墓などを紹介。
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