工藤俊作

工藤俊作(くどうしゅんさく) 1901(明治34)~1979(昭和54)
 大日本帝国海軍軍人。山形県東置賜郡屋代村で農家の次男として生まれた。山形県立米沢中学校(現・米沢興譲館高校)を経て、海軍兵学校に入学。卒業後に軽巡洋艦「夕張」に配属。1937年に海軍少佐に昇進。1942年、駆逐艦「雷」艦長時に、スラバヤ沖海戦で撃沈されたイギリス軍艦の漂流乗組員422名の救助を命じ実行した。最終階級は海軍中佐。戦後、工藤はイギリス兵救出の逸話は親族にも語らなかった。遺族がこの逸話を知ったのは、助けられたイギリス海軍士官サムエル・フォール元海軍中尉によってである。そして2006年に惠隆之介著『敵兵を救助せよ!』が出版されたことで世間にも知られるようになった。

①工藤俊作の足跡をたどろう

【死闘後に繰り広げられた美談】敵兵422名を助けた駆逐艦艦長・工藤俊作は一切を語らず鬼籍に入る   歴史人

駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作少佐は危険を顧みることなく、漂流中のイギリス軍将兵422名を救助。そしてイギリス兵を敵ではなくゲストとして扱いました。その人道的な行為は多くの人から賞賛されています。堂々とした体躯の持ち主ながら、仲間たちからそのおおらかな性格から「工藤大仏」というあだなが付けられていたそうです。

海の武士道!戦時中に敵兵を救った「工藤俊作」の物語!  知の冒険

工藤艦長と駆逐艦・雷による空前絶後のイギリス兵救助劇とその工藤艦長と助けられたイギリス人サムエル・フォールさんの友情物語です。

英軍将兵422名の命を救った帝国海軍中佐 いまも英米で称賛  NEWSポストセブン

戦時中の工藤艦長のイギリス兵救出は、戦後の日本外交に大きな影響を与えています。米での一部の心ない「ジャパンバッシング」をこの感動的な救出劇の事実が沈黙させているのです。

②工藤俊作の言葉にふれよう

太平洋戦争の真実 その4 ―帝国海軍中佐工藤俊作 ―  曹洞宗西光寺

「Now you are the guests of the Imperial Japanese Navy.」(「あなたがたは私たち日本海軍のゲストです」)―工藤艦長は救助したイギリス将兵を甲板に集めてこう語りかけました。このスピーチの言葉の中に工藤艦長の人間性が表れています。

③工藤俊作の生き方から学ぼう

「海の武士道」を貫いた男??敵兵に〝師〟と仰がれたある日本兵の物語  致知出版社

工藤俊作は海に漂流していた当時敵対国だったイギリス軍の兵士を救助し手厚く介抱しました。彼は部下の兵たちからも厚い信頼を得ていました。その生き方は私たちに勇気と感動を与えてくれます。その知られざる偉人に光を当てたジャーナリスト・惠隆之介さんのお話です。

No.458 駆逐艦「雷」艦長・工藤俊作   国際派日本人養成講座

じつは敵兵を救助または救助の妨害をしないのは日本海軍ではごく普通のことでした。マレー沖海戦では駆逐艦エクスプレスの救助活動中は攻撃を中止。また、工藤艦長の駆逐艦・雷(いかずち)によるエンカウンター乗組員救助と同じくエクゼタ―の乗組員を駆逐艦・電(いなずま)が救助しています。

さらに学ぼう

遺徳しのび慰霊の献花 工藤艦長(大9卒)に救われた元英海軍大尉(山形新聞2008年12月08日掲載記事) 米沢興譲館同窓会 

当時、駆逐艦エンカウンターの乗組員だったサムエル・フォールさんは66年後に来日し、念願の工藤艦長のお墓参りすることができました。その時の記事です。

「敵兵救助の武士道」雷艦長・工藤俊作中佐の墓  近代史跡・戦跡紀行~慰霊巡拝  戦跡紀行ネット 日本の近代と慰霊の地を巡る

埼玉県川口市の薬林寺に海軍中佐・工藤俊作の墓があります。

敵兵を救助せよ 0001  13TANNY

工藤艦長と駆逐艦・雷によるイギリス兵救助劇の再現ドラマです。

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