横井小楠
概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう

横井小楠(よこいしょうなん) 文化6年(1809年)~明治2年(1869年)小楠は熊本藩士の家に生まれ若くして頭角を現します。小楠の学才はやがて他藩の有志の者にも知られるようになり44歳の時には越前福井藩の求めに応じて「学校問答書」を提出することで福井藩と強くつながり正式に藩より招聘されます。幕末の風雲急を告げるなか福井藩への「国是三論」それをさらに発展させた幕府への建白書「国是七条」を提出し徳川慶喜とも議論しています。これらの建白書は慶応四年、明治新政府発足時に打ち出された新しい政治の基本方針である「五箇条の御誓文」につながったと言われています。小楠はいち早く来るべき日本の指針を明らかにして勝海舟をはじめ要路の人々と交わり日本のかじ取りをしようと考えましたが、明治二年に攘夷派の刺客に襲われて命を落としました。左横井小楠像(国立国会図書館デジタルコレクション)
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横井小楠とはどんな人物?簡単に説明【完全版まとめ】 歴史上の人物.com
細川藩横井時直の次男として熊本に生まれます。若くして頭角を現し8歳で藩校時習館に入校し28歳で時習館居寮長(塾長)なっています。31歳で藩命により江戸遊学を命じられます。江戸遊学中に幕府大学頭林檉宇(はやしていう)の門下生佐藤一誠、幕臣の川路聖謨(かわじとしあきら)水戸藩の藤田東湖らと親交を結びます。しかしながらこの藤田東湖らが開いた忘年会で藩外の者と喧嘩となり熊本に呼び戻され70日間の逼塞処分を受けてしまします。この間も小楠は学問に打ち込み志ある子弟が小楠の元にあつまりやがて35歳のときに私塾「小楠堂」を開き多くの門弟を育てました。小楠の学才はやがて他藩の有志の者にも知られるようになります。44歳の時には学校創設に関して意見を求められた越前福井藩に「学校問答書」を提出することで福井藩と強くつながりやがて正式に藩より招聘されます。幕末の風雲急を告げるなか福井藩へ1860年「国是三論を1862年幕府へ「国是七条」の建白書をそれぞれ提出しています。これらの建策で小楠は天皇を中心に国をまとめ言論を活発にして公共の政(まつりごと)(=政治)を行えと主張しました。これらの建策は明治新政府発足時の基本方針である「五箇条の御誓文」にある「広く会議を興し万機公論に決すべし」に生かされました。小楠は来るべき日本の青写真をいち早く示したといえるでしょう。しかしながら明治新政府の参与となった小楠は京都で攘夷派の刺客により落命しました。
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建策国是七条
越前藩主松平春嶽は幕政改革として小楠の建策国是七条を幕府へ提出します。内容は以下のようなものでした。
1) 将軍は上洛して、朝廷にこれまでの無礼を詫びる
2) 大名の参勤を止めて述職とする
3)大名の妻を国元に帰す
4)外様、譜代の区別なく有能な人物を登用する
5)大いに言論の道を開いて天下とともに公共の政を行う
6)海軍を起こし兵威を強くする
7)相対(自由)貿易を止めて官貿易とする
小楠は之までの幕府政治が征夷大将軍として朝廷により権限を与えられているにもかかわらず政権を私的に運用していることを念頭に、先ずは政権の私的運用について朝廷にお詫びをして日本全体のかじ取りのために諸藩の財政的負担を軽減して国を富まし言論の道を開いて広く人材を求めることを訴えています。さらには諸外国と対等に交易をおこなうことを主張しました。これらの建策のうち2)、3)について幕府は参勤交代を簡素化(3年に一度100日)するなどしましたが幕府の衰退は止められませんでした。「7)相対の貿易を止め官貿易」をすすめています。諸藩が自藩の利益のみを目的とする交易(開国)では国全体を富ますことはできないとの主張で、「5)公共の政を行なう」ために封建体制を脱却することが急務と考えていたのでしょう。このように小楠は明治維新の先駆けとなる考えを持ち、日本の変革を考えていた幕府や諸藩の多くの人々に強い影響を与えました。しかし一部の人には小楠の急進的ともいえる改革案は誤解を受け明治2年(1869年)、参内の帰途に京都で刺客に襲われ落命してしまいます。
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国際派日本人養成講座 No.1120 横井小楠 ~ 「大義を四海に布かんのみ」
横井小楠 -その業績と生涯-【市政だより連載】 熊本市 8ページ目
ここでは「送別の語」を紹介します。小楠はなくなった兄時明(ときあき)の子供である甥の左平太・大平をこれからの日本を背負う人材に育てたいと考え、1864年に坂本龍馬を介して勝海舟に預け神戸の海軍操練所に入所させました。しかし翌年神戸海軍操練所は閉鎖されたために二人は長崎に移り英語を学びます。そしてさらに米国へ渡って勉学に励みたいと考え、渡米を決意しました。1866年左平太22歳・大平17歳、小楠58歳の時でした。その時に二人に与えたことばが「送別の語」です。
「送別の語」慶応2年(1866)
堯(ぎょう)瞬(しゅん) 孔子の道を明らかにし、
西洋機械の術(すべ)を盡(つかす)くす
何ぞ富国に止(とど)まらん
何ぞ強兵に止まらん
大義(たいぎ)を四海(しかい)に布(し)かんのみ
心に逆(さか)らうこと有るも人を尤(とが)むること勿(なか)れ
人を尤(とが)むれば徳を損ず
為さんと欲する所有るも
心に正(あて)にする勿れ
心に正(あて)にすれば事を破る
君子の道は身を修るに在り
簡単に要約しますと、
前半では、日本は古代中国の聖天子と言われる堯、舜や孔子の行った政治を踏み行い、西洋の科学文明を取り入れなければならない、そして単に富国強兵に止まるのではなく人として行うべき道徳をを世界に広めることが大切である。という意味でしょう。小楠は西洋の機械文明を学ぶ前提に東洋日本の道徳を忘れてはならないといいたのでしょう。この考えは明治に入り「和魂洋才」という言葉で多くの人に影響を与えました。これは日本固有の精神(和魂)を大切にしながら、西洋の学問や知識(洋才)を学び、発展させていくという精神です。現代日本の文化や技術、さらには人の振る舞いも西欧とは違うといわれるのも小楠の残した影響かもしれません。
後半は二人に小楠自身の信念と理想を述べています、自分の心に気に食わないことがあっても人をとがめだてしてはいけない、人をとがめだてすればすれば自分の道徳に傷がつく、何かをしようとするときに結果を予想して当てにしてはいけない、そんなやり方では必ず失敗する。そして最後に「君子の道は身を修るに在り」として二人へのはなむけの言葉を結んでいます。君子として誰からもとがめられるこなく、また自分自身に恥じることなくひたすら向上しなさいと送っています。これは小楠自身の生き方そのものでしょう。そして「心に正(あて)にする」といって「正」の字をあてています。普通、正はあてとは読まないのですがこの頃小楠は攘夷派の人に警戒され暗殺の危険もありました。事実、約2年後に刺客に襲われ命を落とします。小楠は正義を振りかざす人々の心を「心に正(あて)にする」と言ってそれをしてはいけないと諭したのかもしれません。
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甦る熊本の文化財-2019年10月「横井小楠記念館」 熊本市公式チャンネル
熊本にある横井小楠記念館の紹介YouTubeです。
横井小楠遭難の跡 京都観光Navi
京都市内の御所近くに碑が建っています。

京都府京都市 天授庵/横井小楠墓所 試撃行
横井小楠の墓は京都天授庵にあります。
横井小楠に関する書籍
手に入りやすい本
『横井小楠』 松浦玲 ちくま学芸文庫
『横井小楠:維新の青写真を描いた男』 徳永洋 新潮新書
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