岡倉天心

岡倉天心(おかくらてんしん)1863(文久2)年~1913(大正2)年
明治期の美術史家、思想家。越前藩の元藩士・岡倉勘右衛門の次男として横浜で生まれる。父は藩命を受け、藩が横浜に開いた商店の貿易商となっていたため、幼少期より英語、漢籍を学んだ。13才で東京開成学校(現・東京大学)に入学、恩師となるお雇い外国人アーネスト・フェノロサ(哲学者、東洋美術愛好家)に師事して東洋美術に親しんだ。卒業後文部省に就職して美術行政を担当し、社寺や伝統美術の保存活動、東京美術学校(現・東京藝術大学)設立にあたった。後、東京美術学校の校長に就任して横山大観、菱田春草らを育て、「日本美術院(現・院展)」を創設するなど、当時急速に進む西欧化の中で危機的状況にあった日本美術の復興に尽力した。さらに西欧化の中で敢然と東洋の価値観を説いた『東洋の理想』、日露戦争を戦う日本の正当性を主張した『日本の目覚め』など英文の著作を世界に発信して大きな反響を呼んだ。特に茶道を通して日本の美意識、精神文化を述べた『茶の本』は各国語に翻訳され、世界的ベストセラーとなった。静養に赴いた新潟で病没。享年50才。肖像は茨城県天心記念五浦美術館蔵。
①岡倉天心の足跡をたどろう
『【世界に初めて日本美術の素晴らしさを伝えた】岡倉天心の歴史』ナオヒロのマイナーな歴史チャンネル(11分)
岡倉天心の生い立ちと当時の時代背景、その業績を分かりやすく説明。天心の言葉を引用してその思想も解説しています。
『3分でわかる岡倉天心』 人から分かる3分美術史(3分)
岡倉天心の生涯と功績、交友関係などを簡潔に紹介しています。
『岡倉天心とは?日本美術を世界に知らしめた激動の人生を辿る』 藝大アートプラザ
フェノロサと共に京阪の膨大な古美術を調査し、国宝に指定する作業を推進した岡倉天心。20年ぶりに開帳した法隆寺の秘仏を見て「実に一生の最大事なり」とその感動を述べています。
②岡倉天心の言葉にふれよう
『【名著】茶の本 岡倉天心~日々の疲れとストレスを癒す極上の哲学~』 アバタロー(27分)
岡倉天心は明治期の西洋化の大波に真正面からぶつかって東洋の伝統的な美と精神を世界に説き、大きな衝撃を与えました。天心は何を訴えたのでしょうか。当時の時代背景と天心の足跡も簡潔に紹介。
『日本人の「美意識」がわかる!~「武士道」と並び称される世界的名著~茶の本岡倉天心』 ガクの本棚(24分)
西洋文化に染まった私たちはどれだけ偉大な精神を失いかけているのか。岡倉天心の著作からそれを学ぶことができます。
③岡倉天心の生き方から学ぼう
『岡倉天心の名言から人生の目的達成の極意を読み解く』 リベラルアーツ研究所
岡倉天心は周囲の人々に慈愛の心をもって接し、見返りを求めませんでした。下村寒山の絵を指導する時にかけた言葉など様々なエピソードが紹介されており、天心の魅力的で温かい人柄が伝わってきます。東京美術学校を辞職した際、天心を慕う多くの人々が共に辞職したのも納得できます。
『岡倉天心はどんな人?生涯・年表まとめ【思想や名言、作品も紹介】』 レキシル
岡倉天心の3つの功績(日本伝統美術の保護、近代日本美術の発展に寄与、東洋文化の価値を世界に紹介)の他、天心の生涯、名言、逸話などを紹介しています。明治初期、怒涛の西欧化の中で日本、東洋の優れた思想や美術に注目し、それを世界に伝えた天心の信念と努力に思いをはせてみましょう。
さらに学ぼう
『美術を身近に親しんで~ 茨城県天心記念五浦美術館』 いばキラTV(8分)
岡倉天心は日本美術院を東京から風光明媚な茨城県五浦に移し、この地で横山大観、菱田春草、下村寒山らを指導して日本を代表する画家に育てました。
『岡倉天心記念公園(岡倉天心旧居跡)』 東京とりっぷ
東京都台東区谷中に岡倉天心記念公園があります。かつてこの地は日本美術院が開設され、横山大観、菱田春草らが住む日本美術の中心地でした。
『東京藝術大学の歴史とは?東京美術学校と東京音楽学校の成り立ちから解説』 藝大アートプラザ (geidai.ac.jp)
東京美術学校の発足時、岡倉天心とフェノロサはなぜ日本美術を守ろうとしたのでしょうか。
「天心が渡欧したのは、欧米諸国で日本美術に触発されたアール・ヌーヴォーが盛んだった時期ですので、海外における日本美術の評価を強く体感したものと思われます。フェノロサもアメリカから来ていますし、自国の文化の価値は対外的な目があった方がより分かるということなのかもしれません。」











