人々の心を耕し、再興の道を拓く
──江戸時代の偉大な農政家・二宮金次郎

我流の策で再興に導く
かつて多くの小学校には「二宮金次郎」像がありました。背中に薪を背負い、胸の前で本を開き、半歩踏み出す姿は、勤勉・勤労の象徴でした。
江戸時代後期、現在の神奈川県小田原市の裕福な農家に生まれた金次郎ですが、度重なる水害で田畑を、さらに病で両親を失います。兄弟はバラバラとなり親戚の元で暮らしますが、金次郎は二宮家を再興して再び皆で一緒に暮らそうと、勉学に励みました。
やがて武家に奉公に出て収入を得た金次郎は、荒地を購入し、来る日も来る日も土地を耕しました。安い荒地でも、農業に適した土地にすれば、高く売ることができるのです。金次郎は土地が売れるとまた荒地を買い足し、心を込めて耕していきました。
勤勉・勤労という美徳を発揮し、さらに経済の仕組みをうまく活用して、見事に二宮家を再興した金次郎。なんとこの若者に、小田原藩の家老・服部家の財政再建が託されるのです。
金次郎は服部家の邸で働く女中さんたちに、すすを持ってくれば買い取ると約束します。彼女たちは邸内の鍋や釜を磨き上げ、すすを集めました。すすが取れた鍋や釜は、燃料効率が上がり、薪の消費量が三割も減ったといいます。周りの人々を笑顔にしながら支出を減らしていくって、素敵なことですね。
農民たちの悲しみとともに
およそ五年で服部家の財政を立て直した金次郎。次に託されたのは、桜町(現在の栃木県真岡市)領の復興です。彼は早朝から深夜まで領内を巡回し、現状を分析して課題を明らかにするとともに、農民に声をかけて信頼関係を築いたり、働き者を表彰したりして、人々の心を耕していきました。
桜町は耕地よりも荒地の面積が大きいという問題を抱えていました。そこで金次郎は近隣の村から人を雇ったり移住を勧めたりして、人手を増やして新田開発に努めました。さらに農業に必要な水を確保するため、用水路や堰を整備していったのです。
ところが農民の中には、金次郎に反感を持ち、従おうとしない者も多く、改革は遅々として進みません。それに嫌気がさした金次郎は、桜町から出て行ってしまいます。向かった先は、現在の千葉県にある成田山新勝寺。二十一日間に及ぶ断食修行をしたそうです。
その間、金次郎は自分の立場を離れ、農民の身になって考えてみました。これまで桜町には貧しさに耐えきれず夜逃げする者も大勢いたのに、彼らは自分に反抗しながらも故郷に留まり頑張っている。桜町を愛しているのだ。きっと過去に何人も改革者を名乗る人が現れ、失敗すると農民に責任をなすりつけてきたのだろう。そして自分も、そんな無責任な改革者の一人と思われたに違いない──。
ここまで想像すると、金次郎には彼らがたまらなく愛おしく思えました。ちょうどそのとき、自らの態度を反省した農民たちが金次郎を迎えに来ました。金次郎は告げます。
「君たちは悲しみの歴史を積み重ねてきたね。その悲しみを一緒に背負わせてほしい。でも悲しみを分かち合うだけでは現実は変わらない。共に歯を食いしばって、過去を超えていこう」
金次郎は問題にぶつかると、いつも相手を川、自分を水車に置き換えたそうです。水車は川の流れに沿って頭を突っ込みますが、半ばまでくるとグッと踏ん張り、流れに逆らうことでエネルギーを生みます。金次郎はまさに水車の役割を演じたのですね。
この水車と川の関係は、相手が自然でも同じことです。ある年、金次郎が初夏にナスを食べると、不思議なことに秋ナスの味がしました。彼はこの後、冷夏になると判断し、稲の苗を抜いて寒さに強い稗や粟に植え替えるよう、指導しました。その予測は的中。冷夏で日本中が凶作となり、餓死者が続出する中、桜町は一人も餓死者を出さずに済んだのです。
常に相手に寄り添い、現実を受け入れた上で、対応策を施していく。金次郎が桜町に遺した足跡は、時代を超えて問題解決のヒントを与えてくれますね。
出典:『れいろう』令和3年10月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より