橋本左内

(はしもと さない)1834(天保5)年 ~ 1859(安政6)年
江戸時代末期の武士。福井藩藩主に仕える奥外科医の家に生まれる。幼少の頃から神童のほまれ高く、性格は温和で一度も人と争うことがなかったという。
12才で儒学者・吉田東篁に師事し、15才で自身の述懐を述べた『啓発録』を著した。
16才で大阪の緒方洪庵の適塾に入って蘭学、医学を学び、最年少ながら学力は第一、師の洪庵も高く評価した。21才で江戸に遊学して蘭方医学を学ぶとともに水戸藩の藤田東湖、薩摩藩の西郷隆盛らと交流した。やがて学問、人物、見識に優れた左内は藩主・松平慶永(よしなが)に深く信頼され、わずか24才で藩校・明道館の学監[校長]となり、一般庶民も学べるようにするなど教育改革を進めた。
同年江戸詰めを命じられ、藩主の腹心の側近として国の政治にも関わっていく。
1853(嘉永6)年にペリーが来航すると、左内は藩主・慶永の命を受けて京都に赴き、公卿らに外国との条約締結は朝廷の判断を待つべきであると説いた。
しかし大老・井伊直弼は勅許を得ないまま日米修好通商条約を結び、懸案だった次期将軍を徳川慶福(よしとみ。後の14代将軍家茂)に決定、さらに次期将軍に一橋慶喜(よしのぶ。後の15代将軍慶喜)の擁立を図った一橋派の人々を弾圧した。この安政の大獄により松平慶永らは引退、謹慎処分を受け、左内は藩主に進言して慶喜擁立に奔走したため斬首の刑に処せられた。享年26才。西郷隆盛は橋本左内を高く評価し、「我、先輩においては藤田東湖に服し、同輩においては橋本左内に服す」と述べている。
①橋本左内の足跡をたどろう
『橋本左内【時代を先取りした天才志士の生涯】~幕末の福井藩士~』人生を変える歴史と古典の教室「新倉塾」(24分)
橋本左内が生まれた頃の時代背景や生い立ちから、左内の残した言葉、左内が描いた日本が生き残るための画期的な方策・構想まで分かりやすく解説しています。
『【早わかり】橋本左内』 歴史のじかんch byAs(3分)
橋本左内は、欧米列強に対抗するために雄藩大名も幕政に参加する挙国一致体制を築き、開国によって近代化、富国強兵を図るという画期的な幕政改革を目指していました。ロシアと同盟を結んで他国に対抗する構想も斬新なものでした。
『橋本左内とはどんな人物?簡単に説明』 歴史上の人物.com
黒船来航という国難の中、橋本左内は日本の改革のために奔走しました。わずか26才で処刑されたのは、それだけ大きな影響力をもっていたからでしょう。
『橋本左内 安政の大獄によって失われた有能な若者』 人物事典 幕末維新
西郷隆盛は「同輩においては橋本左内にかなわない」と評し、西南戦争で亡くなるまで橋本左内の手紙を肌身離さず持っていました。西郷も左内に敬服していたのです。
②橋本左内の言葉に触れよう
『信念が見える。橋本左内の名言5選と辞世』 歴史上の人物.com
西郷隆盛らとともに国事に奔走し、処刑された橋本左内。短い生涯に残した言葉には、左内の信念が感じられます。
『現代語私訳 橋本左内 『啓発録』』 橋本左内先生のホームページ
日頃の行動や心がけ、学問、交友について自身を厳しく見つめ、自戒した文章です。
藩や国家に貢献したいという熱い思いが伝わってきます。(5項目を全て現代語訳。ただし最後の「まとめ」の部分はありません)
③橋本左内の生き方から学ぼう
『幕末の天才が遺した『自分磨きのバイブル』とは? 啓発録』 ガクの本棚(17分)
幕末を生きた影の英雄・橋本左内が残した『啓発録』は、生き方に悩む人の人生を劇的に変える力をもっています。吉田松陰や西郷隆盛にも大きな影響を与えた人物です。
『橋本左内』 通信制高校の勇志国際高等学校
左内の志は国難に直面した日本を救うことでした。天下国家の病根を治す「大医」を目指したのです。天を衝く志をもって国事に奔走した左内が、安政の大獄で処刑されたのは、日本にとって大変惜しいことでした。
さらに学ぼう
『幕末の俊才・橋本左内 ゆかりの地を訪ねて』 Gen Japan(6分)
橋本左内の墓、邸宅跡、左内を祀る神社など、左内ゆかりの地を紹介しています。
『橋本左内の最期の場所をレポート!西郷隆盛との関係や啓発録も解説』 大河ドラマ セレクト日本史 (pleasure-bit.com)
現在の東京神田に近い小伝馬町。橋本左内と吉田松陰はここにあった牢屋敷の処刑場で斬首されました。
福井県,政治家