大久保利通

(おおくぼ としみち)1830(文政13)年 ~ 1878(明治11)年
江戸時代末期の武士。明治時代の政治家。薩摩藩の下級藩士の家に生まれる。
幼少期から同じ町内で3才年上の西郷隆盛とともに学び、親友となった。
19才の時、お由羅騒動(薩摩藩内の跡継ぎ争い)に巻き込まれて父は流罪、自身も罷免、謹慎処分となる。島津斉彬が藩主になると許されて復職、斉彬死後は藩主の父・久光の下で薩摩藩の方針である公武合体の方向で活動した。しかしその後西郷とともに薩摩藩を武力倒幕の方向に転換させ、倒幕運動の中心となって幕末の激動期に指導的役割を果たした。
明治新政府ができると大久保は参議、さらに大蔵卿に就任し、西郷の協力を得て廃藩置県を成功させ、近代的統一国家を実現した。
岩倉使節団に同行したが、帰国後朝鮮への使節派遣をめぐって西郷と対立し、西郷は参議を辞任した。西郷が鹿児島に帰った後、大久保は内務卿を兼任して最高実力者となり、地租改正、富国強兵、殖産興業などを推進して日本の近代化に尽力した。
西南戦争では盟友であった西郷を鎮圧したが、その翌年、紀尾井坂で不平士族らに襲撃され、即死した。享年47才。
極めて厳格な性格で、大久保が出勤すると役所内の空気が一変して引き締まったという。また死後、大久保の資産はほとんどなく、莫大な借金が残っていた。私財をなげうち、さらに借金して苦しい国の財政を補っていたためであった。

①大久保利通の足跡をたどろう

『【ゆっくり解説】近代日本の建国者「大久保利通」!維新三傑のひとり•倒幕や明治維新を主導した彼の激動の生涯を振り返る』  ゆっくり日本の近現代史(40分)

西郷隆盛、木戸孝允とともに「維新三傑」と呼ばれる大久保利通。幕府との戦いや日本の近代化に大久保がはたした役割は極めて大きいものでした。

『明治維新は鹿児島から始まった!? 新しい時代を切り開いた西郷隆盛と大久保利通』 かごしま市観光ナビ

幕末から明治初期にかけての複雑な流れを、西郷と大久保の活躍を中心にわかりやすく説明しています。

②大久保利通の言葉にふれよう

『大久保利通の名言集|座右の銘は?人物像が見える逸話を交えて簡単に解説』Histonary- 楽しくわかる歴史の話 –

大久保の座右の銘であった「為政清明」。まさに国家のために自分の全てを尽くした大久保の生きざまを表す言葉といえます。

『【維新の三傑】大久保利通の名言から彼の人物像を知る』  歴人マガジン

親友西郷隆盛を討伐せざるをえなかった大久保利通。大久保は万感の思いをもって西郷の死をうけとめました。

③大久保利通の生き方から学ぼう

無私の激突、征韓論~西郷 対 大久保 (国際派日本人養成講座)

韓国を説得するため自ら韓国に赴くと主張する西郷隆盛に対して大久保利通は反対、そのため政府は分裂し、後の西南戦争につながります。無私の心で、死を覚悟して反対した大久保の決断。大久保の真意はどこにあったのでしょうか。

『大久保利通の生涯と人物像|功績・名言・死因・子孫は?』  History Style

大久保利通は政府の実権を握りましたが、金には清廉潔白で不正をすることはありませんでした。逆に借金して(現在価値で約2億円)国の財政を補っていました。

『【大久保利通暗殺される!】紀尾井坂の変の概要と事件の影響』  歴人マガジン

不平士族に恨まれて命を落とした大久保利通。しかし士族に恨まれるのは承知の上で、近代化のために数々の政策を断行し、国のために尽くしました。

さらに学ぼう

『【明治時代】211 大久保政権と民撰議院設立建白書』  YouTube高校(10分)

大久保利通は自由民権運動の高まりに対してどのように対処したのでしょうか。

『大久保利通銅像』  鹿児島県観光サイト かごしまの旅

大久保の銅像と略歴について簡潔に説明。


鹿児島県  政治家  江戸時代・明治時代  KY

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