大黒屋光太夫

1751(宝暦元)年~1828(文政11)年
伊勢国白子を拠点に廻船(運送船)の船頭として江戸へ向けて航海中の1782(天明2)年駿河沖で嵐のために漂流しアリューシャン列島のアムチトカ島に漂着しました。そこで現地人、ロシア人と協力してロシア語を習得しロシア人とともに島を脱出するための船を造り漂着後から4年後に島を出ます。しかし船は日本ではなくロシア人の指揮に従ってカムチャッカへ向かい、さらにオホーツク、ヤクーツクを経由してイルクーツクへ辿り着きました。その間、日本人船員は次々に亡くなります。イルクーツクでは日本に関心を持っていたキリル・ラクスマンの助言で日本への帰国を願い出るため女帝のエカテリーナ二世に遭いにはるばる首都のサンクトペテルブルクへ向かいます。そこでエカテリーナ二世に謁見して日本への帰国を願い出て認められます。ロシア側には光太夫らを返すことで日本との通商交渉を行い貿易をしようとの目的があったのです。大黒屋高太夫画『吹上秘書漂流民御覧之記』より

①大黒屋光太夫の足跡をたどろう

【大黒屋光太夫】ロシアから帰還した日本人漂流民の壮絶な人生   歴人マガジン (rekijin.com)

黒屋光太夫(以下光太夫という)は1751(宝暦元)年伊勢亀山藩若松村の船宿、亀谷四郎治家の次男として生まれました。1778(安永7)年に亀谷の分家・四郎兵衛家の養子となり次いで次姉の嫁ぎ先の回船問屋一見勘右衛門の沖船頭小平治に雇われ船頭次いで沖船頭(船長)として取り立てられ大黒屋光太夫と称しました。1783(天明2)年12月光太夫は神昌丸で伊勢国白子浦から江戸に向けて出港しました。神昌丸には16名の乗組員ら(船員15名と紀州藩の立ち合い農民1名)が乗り込み積荷は紀州藩の囲米(備蓄米)などでした。しかし駿河沖で暴風に遭い航路を外れ7か月の後にはるかアリューシャン列島の中ほどにあるアムチトカ島に漂着しました。アムチトカ島には原住民のアレウト人のほか毛皮の採集のために滞在していたロシア人に保護される形となりました。ここで光太夫は彼らとの交流を通じてロシア語を習得して仲間とともに生き延びようとします。そしてロシア人を迎えにロシア船がやってきたのですが到着目前に難破してしまい漂流民が逆に増えてしまいました。光太夫は船の構造や操船技術に長けていたため日本人船員やロシア人を指揮して難破船の材料で脱出用の船を造り島に漂着して4年後の1787年に島を脱出しました。島を去った時に生き残っていた仲間は9人になっていました。早く帰国したかったのですがロシアの指揮に従い一行はカムチャッカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年にシベリア総督府が置かれていたイルクーツクに到着しました。この間も仲間が次々と亡くなります。イルクーツクに辿り着いたのは白子出航から7年が過ぎていました。当時ロシアは日本との国交を望んでおり、そのためイルクーツクの総督は光太夫らの帰国願いを拒絶して日本語教師になるように強制しました。しかし光太夫はこれを拒否します。するとロシアは光太夫らを保護することを辞めたために生活にも困ることになりました。そこで出会ったのがロシアペテルブルク科学アカデミーの会員であったキリル・ラクスマンでした。ラクスマンの周旋によりペテルブルク近郊でロシア女帝のエカチェリーナ二世に拝謁しついに帰国の許可を受けます。これは光太夫の熱意が通じたことと光太夫らを日本へ送り届けることで日本との国交を進めようとしたロシア側の意図がありました。こうして日本を出て約9年後の1792年にロシア船・エカテリーナ号で根室に帰着しました。この時日本に帰り得たのは光太夫、磯吉、小市の3名でした。しかし小市は直後に亡くなります。この船にはキリル・ラクスマンの息子のアダム・ラクスマンが使節として乗っていました。この事態に幕府は混乱しロシア船には長崎回航を命じ光太夫は聞き取りを受けました。その後、光太夫は江戸で暮らし多くの蘭学者らと交わり海外事情の啓発に努めました。

② 大黒屋光太夫の言葉にふれ生き方に学ぼう

漂流ものがたり(大黒屋光太夫の漂流記録①②③④) 国立公文書館

日本に帰国した光太夫は幕府の聞き取りを受け、その口述の内容は蘭学者の桂川甫周(かつらがわほしゅう)が北槎聞略(ほくさぶんりゃく)として編纂しました。漂流からアムチトカ島漂着、島からの脱出とカムチャッカ到着、更にイルツークスへ移動してキリル・ラクスマンと遭遇してロシアの首都ペテルブルクで女帝のエカテリーナ二世に謁見し再び逆のルートで根室に帰国するまでの様子を日付とともに詳細に語っています。更にロシアで見聞した風俗習慣や言語に至るまで語り尽くしています。それ以外にも当時のヨーロッパの地図やペテルブルクの地図まで持ち帰っています。光太夫には生き延びて日本へ帰りたいという強い意志があったのはもちろんですが、同時に「自分は日本人として初めてロシア各地を巡り見聞したもの、経験したものを記憶に留め日本に帰ることができればこれらの見聞も同時に持ち帰ろう」という強い好奇心と使命感を持っていたと思われます。そしてその記憶を聞き出した桂川甫周も光太夫と同じような好奇心と使命感を持っていたと言えるでしょう。こうして日本でのロシア情報は一気にその厚みを増したのです。
イルクーツクでロシアはそれまでの日本人漂流民と同じように日本語教師となるように強要しますが光太夫はこれを拒絶します。ロシアには外交を進めるために先ず語学要員を養成する必要があったのです。過去の漂流民には現地に同化し結婚して永住する人もいました。しかし光太夫はロシア語をマスターし現地の気候風俗に馴染んでも現地に留まる意思はなくあくまで故郷の日本に帰ろうと努力します。光太夫の日本への強い帰属意識と日本人としての強烈な自負心が9年にわたる異国の生活に耐えロシア女帝エカテリーナ二世をも動かしたのでしょう。

さらに学ぼう

大黒屋光太夫の戦い ~ 帰国を求めてロシア女帝と直談判 国際派日本人養成講座 (動画+読み物)

光太夫の波乱の漂流物語が動画と読み物でまとめられています。

大黒屋光太夫記念館

三重県鈴鹿市に記念館があります。

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