この命を愛に生き 人々の心に希望を灯す ── 青年が救った佐賀・唐津の奇跡の村

医者のない村を守った警察官

美しい海と焼き物、それに「唐津くんち」と呼ばれるお祭りで有名な、佐賀県唐津市。その唐津市の西部、肥前町高串が今回の舞台です。

明治二十八年、日清戦争が終わり、衛生環境の悪い戦地から兵士たちが帰国すると、日本中にコレラが蔓延しました。医者のいない高串の村で、人々が頼りにしたのは、警察官になりたての二十五歳、増田敬太郎巡査でした。

彼は着任すると、すぐに患者の家々を消毒し、縄を張りめぐらして人々の往来を禁止しました。さらに村人たちに生水や生物を控えるよう、衛生指導を行いました。これらはコレラ対策として適切な措置でしたが、やがて村人の間に根も葉もない噂が広がります。「増田巡査が患者に毒薬を飲ませている」──。実は、すでに手遅れの患者が薬を飲んだ後、次々に亡くなるという事態が起こっていたのです。

もし私が増田巡査の立場なら、「もうやっていられない」と、すべてを投げ出したと思います。でも、それって、本当に村人を思っているのではなく、村人に感謝されたいだけなんですよね。増田巡査の村人への愛は本物です。彼は村中を一軒一軒まわり、根気強く人々の誤解を解いていったのです。その努力が実って、村人は増田巡査の話に耳を貸すようになりました。

しかし一難去ってまた一難、コレラが伝染病であることに過剰反応した人々が、コレラによって亡くなった方の遺体を運ぶことを拒むようになります。増田巡査はたった一人で遺体を背負い、対岸の丘の上の墓地に埋葬しました。村人への衛生指導や患者の看護に加え、遺体の埋葬まで──。

いくら若くて体力があるとはいえ、この活動量は限界を超えていたでしょう。極限状態の増田巡査の身体に、容赦なく魔の手が襲いかかります。そう、コレラです。彼はコレラに侵されてしまったのです。

私が全部背負っていきますから

増田巡査は帰らぬ人となりました。高串に着任して、四日目のことでした。実は一人何役にもわたる働きは、たった三日間の出来事だったのです。死の間際、彼は切れ切れの息の中でこう告げたそうです。
「高串のコレラは私が全部背負っていきますから、安心してください」

村人は悲しみに暮れながらも、増田巡査の深い愛に包まれ、もうコレラを恐れなくなっていました。彼の遺体は村人の手で火葬されたのです。その日から、不思議なことにコレラはぱったりと鳴りをひそめ、この地域に穏やかな日々が戻りました。

高串の人々は、増田巡査の御霊を慰めようと、神社を創建しました。それが、日本で唯一つ警察官をご祭神とする、増田神社です。村人たちは増田神社を大切にし、四日間の恩を百二十年以上語り継いできました。そして毎年開催される夏祭りでは、白馬にまたがって敬礼する増田巡査の山笠を、子供たちが誇らしげに曳いて、町内を練り歩くのです。

それにしても、なぜ高串のコレラは終息したのでしょうか。その理由を私は次のように考えています。

村人がコレラに対して無知だったとき、適切な対策を施せずに被害は広がっていきました。その後、人々は正しい知識を得ましたが、その結果、恐怖心を抱いてしまいました。いくら正しい知識を得ても、人々が怯え続ける限り、その知識は生かされません。

では、増田巡査の死をもって、何が変わったのでしょうか。それは、村人の心ですよね。増田巡査の愛溢れる生き方が、彼らの恐怖心を春の雪のように溶かしました。そして、恐怖を手放した村人に感謝の気持ちがわき上がり、愛のともしびが灯った――。心が愛で満たされたとき、目の前の状況は一変する、それを奇跡と呼ぶのではないかと思います。

正しい知識を身につけ、実践し、周囲の人にも伝えていく。その上で、人々の心に希望の光を灯す――。一人ひとりがそんな存在になることで、少しでも世の中をよくしていきたいですね。

出典:『れいろう』令和2年3月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より

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