高田屋嘉兵衛

高田屋嘉兵衛明和6年(1769年)~文政10年(1827年)
淡路島の出、兵庫津で廻船商人として活躍し蝦夷地の箱館(函館)を拠点に国後島・択捉島の航路開拓や漁場運営、各種物産の交易で財を築き現在の北海道や北方領土の発展に貢献しました。ゴローニン事件で船もろともロシアによりカムチャッカに連行されるが日本・ロシア双方の信頼を得て日露交渉の切掛けを作り事件解決へ導きました。写真は函館市宝来町に建つ高田屋嘉兵衛銅像。

①高田屋嘉兵衛の足跡をたどろう

江戸時代に日本とロシアの架け橋となった高田屋嘉兵衛の生涯  JAPAAANマガジン

淡路島の生まれで22歳の時に叔父を頼って兵庫津に出て船乗りになりました。沖船頭として頭角を現し、ほどなくして大型船を入手して蝦夷地(北海道)へと進出しました。当時あまり開発の進んでいなかったが良港であり蝦夷地の中では地の利の良かった函館を拠点に交易を拡大します。1799年には幕府の委嘱を受け国後島と択捉島の航路を開拓するとともに択捉島の漁業振興にも力を注ぎその地のアイヌ人に漁法を指導し多くの漁場をひらきました。このようにして択捉島、国後島の開発を進め人々の往来や物資の流通が活発になりました。ところが1812年に国後島沖を観世丸で航行中の嘉兵衛はロシア船ディアナ号に拿捕されカムチャッカのペテロパブロフスクに連行されました。これは日本側に捕らえられていたディアナ号の艦長ゴローニンの釈放交渉のための人質としてディアナ号の副艦長のリコルドが行ったものでした。
日本側のゴローニン捕縛の原因には1806年と1807年に起こったスヴォストフ事件(日本では文化露寇と呼びます)と呼ばれるロシアによる樺太や択捉島の日本人居留地や幕府軍への略奪、放火の攻撃があり日本は警戒中でした。このころ樺太や千島列島はその帰属が決まらず日本人や現地人、ロシア人が開拓の拠点を作るなどして混住していました。人質となっても比較的よい待遇を受けていた嘉兵衛はロシア語を学びゴローニン捕縛の原因がスヴォストフの暴虐にあることを説明して理解を求め、ロシア側の謝罪文提出によるゴローニンの釈放を提案しました。
1813年に嘉兵衛とリコルドはペテロパブロフスクを出港し国後に入港します。そして嘉兵衛は先ずこれまでの経緯を幕府へ説明して交渉の切掛けをつくります。これ以上ロシアとの紛争を望んでいなかった幕府はスヴォストフによる略奪・放火がロシア皇帝の命令ではないとの釈明文を提出すればゴローニンを釈放すると提案します。提案を受け入れたリコルドはロシア本土のオホーツクへ戻って正式文書を持ち帰りゴローニン事件は解決しました。
日本に戻った嘉兵衛はしばらく箱館に滞在した後兵庫本店に戻り、その後出生地の淡路島で生涯を終えました。淡路島では資材を投じて公共工事や港湾の整備などをしています。

② 高田屋嘉兵衛の言葉にふれ生き方に学ぼう

JOG(1102) 高田屋嘉兵衛とピョートル・リコルド ~ 幕末の日露外交危機を克服した二人の友情 国際派日本人養成講座 (動画+読み物)  

嘉兵衛はリコルドに捕らわれロシアに連行されるときに一身を犠牲にして、日露両国の調停に当ることを決意し、単身赴くことを主張したが容れられず、やむなく船員4名を同伴することとなりました。その際手紙を分かれる船員に託しました。そこには「異国に行くことになったが、良い通訳に出会い交渉をすれば穏やかに解決もできるでしょう。いつまでも異国と騒がしくしていては我が国のためにならない」と述べ更に「言葉も分からず言いたいこと伝わらず、どれほどつらいことになろうともその時は命を捨てれば構うことはありません。」と覚悟を記しています。そしてその覚悟の根底は「日本のためあしく事は致し申さず、只天下のためを存おり候」(日本ために悪くなるようなことは決していたしません。ただ天下のためを思っております)と期してロシアに渡りました。このような嘉兵衛の覚悟、信念を見たリコルドは互いに肝胆相照らす仲となり強い信頼関係を築いてゴローニン事件を解決に導きました。

さらに学ぼう

高田屋顕彰館・歴史文化資料館

淡路島に資料館があります。函館にも記念館がありますが現在休館中です。

書籍:司馬遼太郎「葉の花の沖」文春文庫
   童門冬二「高田屋嘉兵衛:物語と史跡をたずねて」成美文庫

兵庫,江戸,実業家,AK

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