源頼朝(みなもとのよりとも)
西国に進撃か、東国に後退か - 武士と天皇との関係を源頼朝になって決断してみる

じつは富士川の戦いで勝利した後、頼朝は西国への進撃を命じました。いまの勢いのまま京の都まで進もうと考えたのです。
しかし、このときに家来である上総広常・千葉常胤・三浦義澄などの東国の武士たち
は反対しました。
頼朝の仲間になろうとしない常陸(いまの茨城)の佐竹氏や奥州(いまの東北地方)
の藤原氏がいるからです。こうした武士たちが背後から頼朝たちをねらっていたのです。
このエピソードこそが頼朝の運営する武士政権の姿を決めるものだったと言えるでしょう。
「富士河の陣から平家勢が敗走したとき、頼朝はその追撃を命じたが、武将等の反対によって進軍は中止されたという。理由は常陸の佐竹氏をはじめ、周囲に敵対勢力がまだまだ多いということにあった。
先ず東夷を平らぐるの後、関西に至るべし
と軍議は決したという。この京攻めの可否をめぐる記事は、多くの論者の注目を集めている。頼朝勢力が坂東地方を固有の基盤とする政権に成長してゆく、その出発点がここにある、とみなされるからである。」(河内祥輔『頼朝がひらいた中世 鎌倉幕府はこうして誕生した』ちくま学芸文庫 七二ページ)
家来の意見を取り入れた頼朝は、鎌倉にとどまって東国をまとめあげて安定させることにしました。ただ、頼朝は天皇の力が必要なこともわかっていましたので、武士の力に天皇の力をプラスするために京の都に使いを送りました。
このとき天皇は頼朝の実力を認めて、東国全体の政治を進める権利を与え、後には全国に守護と地頭をおき、政治を進める権利も与えました。
安田元久さんは頼朝が「わたしが武士のリーダーだ」と主張した根拠は二つあると言
っています(安田元久『源頼朝 新訂版 武家政権創始の歴史的背景』吉川弘文館
一三一~一三二ページ)。
ひとつめは以仁王の令旨です。
令旨はもともとは皇太子の命令を伝える文書のことですが、この頃には親王のものも
令旨とされていました。
頼朝は「天皇家の命令に従うべし」と言っているわけですから、これまでの貴族世界のルールを引き継いでいることになります。
もうひとつは頼朝が源氏の嫡流であり棟梁であるということです。
自分は源氏の正式な跡取りであり、おじいちゃんの義家以来、源氏のご先祖さまは関
東の武士と主従関係を結んできたという事実です。
これは貴族のルールとはちがう武士の実力で作られた新しい考え方と言えるかも知れません。
頼朝はこれまでの貴族社会のルールを否定しないで、逆に自分の東国支配の力を相手
に認めさせることで事実上の武士政権である鎌倉幕府を作ったということになるでしょう。
こんなエピソードがあります。
頼朝がたった二回だけ京の都に上洛したことがありますが、その二回目のときのことです。
「二度目の上洛の際、頼朝は再建なった東大寺大仏殿落慶供養に臨んでいるが、大雨のなか、数多くの御家人たちが頼朝を取り巻いて身じろぎもせず一団となっているようすを、慈円は驚異の目をもって、その著『愚管抄』に記している。それは京都の人びとに、自分たちとは異質な権力が頼朝を中心に築かれたことを印象づけたことであろう」(高橋典幸『日本史リブレット人○二六 源頼朝 東国が選んだ武家の貴公子』山川出版社 ○八五ページ)
京都の貴族たちはどしゃ降り(?)の中でもじっとリーダー頼朝を守ろうとする東国
武士の鉄の結束に驚いたのではないでしょうか。
その後、天皇は頼朝に高い位を与えようとしましたが、頼朝は位をすべてことわって京の都に住むことはありませんでした。ただし、「東国の悪者を成敗する」という意味の「征夷大将軍」の位だけ受けることにしました。
頼朝はこれが「天皇の力」と「武士の力」を生かすもっともよい方法だと考えたのです。
出典:『あなたならどうする?歴史人物になってみる日本史』(高木書房p79~82)より