板垣退助
板垣退助(いたがき たいすけ)1837(天保8)年 ~ 1919(大正8)年
江戸時代末期の武士。明治時代の政治家。土佐藩の上士(300石)の家に生まれる。土佐藩は大政奉還を掲げていたが板垣は倒幕をめざし、西郷隆盛らと行動を共にした。戊辰戦争の功績により土佐藩の家老格となり、明治新政府では参議となった。
明治6年、朝鮮の排日、鎖国の態度に対して征韓論を主張したが、大久保利通らが反対したため辞職した(明治6年の政変)。明治7年に愛国公党を結成、民選議院設立建白書を提出して自由民権運動を開始した。国会開設を求めるこの運動は全国に拡大、明治14年には自由党を結成して党首となった。
明治15年、岐阜の演説会で暴漢に刺されて負傷、この時「板垣死すとも自由は死せず」という名言を残している。運動は多くの曲折を経て、明治22年、大日本帝国憲法発布、帝国議会開設という形で結実することとなる。
その後伊藤内閣の内務大臣などの要職を歴任、また大隈重信とともに憲政党を創立し、わが国初の政党内閣を実現した。明治33年に政界を引退、晩年は社会改良運動に身をささげ、83歳で死去した。
①板垣退助の足跡をたどろう
『【国会を開かせた男】自由民権の父・板垣退助について解説』【レキガク】歴史学部(16分)
喧嘩をして謹慎処分を受けた板垣退助は村人と農作業に励み、庶民と分け隔てなく交わります。国民の政治参加をめざす自由民権運動はこのような人柄から生まれました。
『板垣退助 われ死すとも、自由は死せず 自由民権運動に注いだ偉人』人物事典幕末維新
板垣退助は、豊かで強い国家を作るためには「国民全てが平等であり、団結する必要がある」と考えました。
②板垣退助の言葉に触れよう
『板垣退助の名言集|有名な台詞の真相は?エピソードとともに解説!』Histonary- 楽しくわかる歴史の話 –
「私の行動が国家の害と思ったら、もう一度刺しても構わぬ」
板垣退助は自分を襲撃した犯人の助命嘆願を行い、保釈後謝罪に来た犯人にこう言いました。自分の命よりも、まず国のことを大切に考えていたのです。
『板垣退助の人生と名言【考える一生と思想編】#2』P4Radio 哲学ナビゲーター(11分)
国民が政治に参加できるようにしたい。今では当たり前のことですが、それを実現しようと板垣退助は立ち上がりました。「自由とは天地自然の普遍的な原理であり、人は自由によって生まれ、国はそれによって存立するものである」彼の生涯と言葉をみていきましょう。
『民撰議院設立建白書』 板垣退助他著
自由民権運動の端緒となる有名な意見書です。
「現在、政権を握っているのは天皇でもなく、人民でもなく、ただ有司(官僚=大久保ら)のみ。我ら天皇の臣は愛国の情抑えがたく、国を救う道を追求するに、全国民の議論が必要であり、議論のためには国会が必要である」と板垣は主張します。愛国と尊王の熱い思いが伝わってきます。
臣等伏して方今(ほうこん)政権の帰する所を察するに、上は帝室(すめらみこと)に在らず、下は人民(おほみたから)に在らず、而(しか)も独り有司に帰す。(中略)
臣等愛国の情自ら已む能はず、乃(すなは)ち之(これ)を振救するの道を講求するに、唯天下の公議を張る在る而已(のみ)。天下の公議を張るは、民撰議院を立つるに在る而已(のみ)。
『自由党の尊王論』 板垣退助著
「わが自由党が自由と権利を主張するのは、『五箇条の御誓文』の天皇のお言葉を信じ、一点の私心も挟まないものである」と述べています。板垣退助の思想の根底には尊王の精神がありました。
世に尊王家多しと雖(いえど)も吾(わが)自由党の如き(尊王家は)あらざるべし。世に忠臣少からずと雖も、吾自由党の如き(忠臣)はあらざるべし。(中略)吾党は我 皇帝陛下をして英帝の尊栄を保たしめんと欲する者也。(中略)
既に我 皇帝陛下には「広く会議を興し万機公論に決すべし」と宣(のたま)ひ、又「旧来の陋習を破り天地の公道に基くべし」と宣(のたま)ひたり。(中略)
故に吾党が平生自由を唱え権利を主張する者は悉く仁慈 皇帝陛下の詔勅を信じ奉り、一点(の)私心を(も)其間に挟まざる者也。(中略)斯(かく)の如くにして吾党は 皇帝陛下を信じ、我 皇帝陛下の意の在る所に随ふて、此立憲政体の慶幸に頼らんと欲する者也。
『自由党史』 板垣退助著
欧州視察旅行から帰国した板垣退助の言葉です。欧米の唱える自由、平等に潜む欺瞞について、怒りを込めて批判しています。
フランスという国は一言でいうならば非常に野蛮な国家である。表向きは自由や平等を標榜しながら、実際には世界中に殖民地を有し、有色人種を使役して平然とし、世界の貴族階級であるかのように振舞っている。かれらが「天は人の上に人を作らず」と唱える自由と平等は、白色人種にだけ都合の良い自由と平等であると言えまいか。私はこのようなことであっては決してならないと考えるのである。私が維新改革を憤然決起して行った理由は、かの国(フランス)に於ける革命主義の如き思想に出でたるものに非ずして、尊皇主義に徹した結果である。しかるに昨今は、西洋の主義に幻惑してこれを崇拝するが如くあるは、最もその間違いの甚(はなはだ)しきものと言わざるを得ず。皆これを見誤ること勿(なか)れ。
『社會主義の脅威』 板垣退助著
板垣退助は、自分がめざす平等は「権利の平等」であり、社会主義者の言う「生活の平等」とは異なるとして社会主義を痛烈に批判、その悲惨な未来も予見していました。
もし生活を平等にするために労働賃金を平等にしたならば… 競争原理が働かなくなり、日に日に社会は退歩し、生活の水準は低い処にあつまり、文明の発展、個人の自由は阻害され、自分で考える事すら出来ない動物のように社会主義の牢獄に閉じ込められ、社会全体が愚者の集合体となり、ついにはミイラのような社会となるであろう。このように個人の自由を阻害し、無理やり社会上における生活を平均化させるような社会主義は、自由党の唱える自由主義とは正反対であると私が説く理由である。
③板垣退助の生き方から学ぼう
『板垣退助とはどんな人?生涯・年表まとめ』 レキシル
板垣退助は幼い頃から正義感が強く、弱い者いじめを嫌い、下級武士や庶民にも差別なく接し、貧しい者を親身に助けました。
『板垣退助の生涯と人物像まとめ!年表・名言・功績・死因も解説』 History Style
幼少期から優しく、皆に寛大だった板垣退助。戊辰戦争では降伏した会津藩に寛容に対処し、自分を襲った犯人の助命に尽力するなど、成長してからもその性格は変わりませんでした。そのため国民から絶大な人気がありました。
『板垣退助とはどんな人物?簡単に説明』 歴史上の人物.com
伊藤博文から「総理大臣にならないか」と言われた板垣退助は、「自分は総理の器ではない」と断ります。出世や地位には執着がなく、私心のない人物だったことが分かります。
さらに学ぼう
『【明治時代】215 板垣退助と自由民権運動』 YouTube高校(11分)
板垣退助が始めた自由民権運動は何をめざしたのか、どのような困難、紆余曲折が待ち受けていたのか見ていきましょう。
高知市立自由民権記念館
板垣退助、植木枝盛、中江兆民らを生んだ高知の自由民権運動の歩みを紹介する記念館。板垣退助が襲撃された時の短刀なども展示されています。
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