楠木正成

(くすのき・まさしげ)
1294(永仁2)年―1336(延元元・建武3)年。
河内国の武将で、現在の大阪府南河内郡千早赤阪村に生まれました。
鎌倉幕府の悪政が続き、後醍醐天皇は倒幕を決意して京都を脱出しますが、天皇に味方する武士はわずかでした。天皇に召し出された楠木正成は倒幕を誓い、天皇が捕らわれた後も千早城に籠城して幕府の大軍を翻弄し続けます。

これを見た足利尊氏らが幕府に背いて挙兵、鎌倉幕府は滅んで後醍醐天皇による建武の新政が始まりました。しかし尊氏は武家政権樹立を図り、天皇に背いて挙兵します。正成に破れ、九州に逃れた尊氏の大軍が再び京都に迫る中、正成が主張した戦略は公家に斥けられました。討死を覚悟した正成は湊川で尊氏の大軍を迎え撃ち、奮戦の末に弟・正季(まさすえ)らと共に自刃しました。

『太平記』は正成について、「智仁勇の三徳を兼(かね)て、死を善道に守るは【人として正しい道を守って死んだのは】、古へより今に至る迄、正成程の者は未だ無りつる」と評しています。

また足利方の武将の著作とされる『梅松論』には、「実に遠慮【思慮深い】の勇士とぞ覚えし。…まことに賢才武略の勇士とも、かようの者をや申すべきとて、敵も御方(みかた)も惜しまぬ人ぞ無かりける」とあり、正成の忠誠心と武勇、私利私欲のない人間性は、敵味方の区別を超えて称賛されていたことがわかります。

徳川光圀によって整備された正成の墓所(現在の湊川神社)には吉田松陰、西郷隆盛、高杉晋作、坂本竜馬ら多くの人々が参拝し、正成を敬慕する人は今も絶えません。

①楠木正成の足跡をたどろう

■『大軍に包囲された千早城の激闘』 YouTube高校

幕府の大軍に包囲された千早城の正成軍は千人。しかし智略を尽くした戦術に幕府軍は翻弄されます。正成はどんな戦いを展開したのでしょうか。

■『正成の最期 湊川の戦い』 YouTube高校

尊氏の大軍との決戦。正成の献策は公家に却下され、覚悟を決めて湊川の戦いに挑みます。両軍の動きを地図上で分かりやすく説明しています。

■『“痛快無比の英雄”・楠木正成の魅力』童門冬二

「楠木正成は、かくも長きにわたって日本人の心を捉えて止まない存在でした」 自身も正成にときめきを覚えたという作家の童門冬二さんがその魅力を熱く語ります。

②楠木正成の言葉にふれよう

■『楠木正成公と「和の国」の根っこ』  国際派日本人養成講座 (動画+読み物)

大軍を相手に奮戦する正成の強さの源はどこにあったのでしょうか。
「からからと打ち笑いて」自刃した正成・正季はどんな心情だったのでしょうか。

■『楠木正成〜花は桜木、人は武士~その純粋な生き様は、武士の理想像として長く日本人の心に生き続けた』  国際派日本人養成講座 (動画+読み物)

正成はなぜ、強大な鎌倉幕府との戦いを決断したのでしょうか。
正成はなぜ、西郷隆盛など多くの人々に敬慕されたのでしょうか。

③楠木正成の生き方から学ぼう

■『日本人の心 楠木正成を読み解く 第3章(3)思いは松下村塾でつながれた』産経新聞

肉体は滅んでも志は生き続ける。吉田松陰はこの死生観を楠公から学びました。

■『日本人の心 楠木正成を読み解く 第3章(7)正成に殉じた西郷の生涯』産経新聞

敵への寛大さ、そして西南戦争。西郷隆盛は楠公を慕い、楠公を手本にして生きまし
た。

■『日本人の心 楠木正成を読み解く 第3章(12)旅順攻略 敗将ねぎらう優しさ』産経新聞

降伏した敵将への温情に世界が感動。乃木大将は日露戦争で楠公の精神を体現し
ました。

さらに学ぼう

■唱歌 『青葉茂れる桜井の(桜井の訣別)』

父の死後も朝敵と戦い、天皇をお守りするよう子・正行に諭す正成。父子の別れを描
いたこの歌は多くの人に親しまれています。歌:ダークダックス

■『なにわ大坂をつくった100人―足跡を訪ねて―第76話 楠木正成(大楠公)』 公益財団法人 関西・大阪21世紀協会

見識・人格共に優れた正成は、「義」を重んじる「武士道」の先駆者でした。

■『楠正成・楠正行ゆかりの地』 大阪府

生誕地、城跡・戦跡、ゆかりの寺社などを紹介しています。


関係地: 大阪府四條畷市 職業: 武将 時代:鎌倉時代 南北朝時代 KY

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