徳川光圀

概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう 

徳川光圀(とくがわみつくに)  1628(寛永5)年~1701(元禄13)年
江戸時代の大名。常陸水戸藩の第2代藩主。「水戸黄門」として知られている。初代将軍・徳川家康の孫に当たり、藩主時代には寺社改革や殉死の禁止、蝦夷地の探検などを行った。儒学を奨励し、彰考館を設けて『大日本史』を編纂して水戸学の基礎をつくった。古典研究や文化財の保存活動などの文化事業にも力を注いだ。また、徳川御三家の長老として幕政にも影響力を持った。伝記等を通じて名君伝説が確立しているが、特に白髭と頭巾姿で諸国を行脚して民百姓の味方をする黄門漫遊譚が形成された。この「水戸黄門」は講談や歌舞伎の題材として人気を獲得し、昭和時代には映画やテレビドラマなどの題材とされた。左水戸光圀肖像は徳川ミュージアム蔵。


 

①水戸光圀の足跡をたどろう  →TOP

【漫画】水戸黄門(徳川光圀)の生涯~不良から名君へ~【日本史マンガ動画】  連載終了漫画家・徳永サトシ

それまでの荒んだ生活を送っていた光圀は18歳のときに中国の歴史書「史記」に出会い、感銘を受けます。そして、学問の面白さに目覚めていきました。光圀はその後250年も続く歴史書「大日本史」の編纂作業に取り組み始めたのです。

徳川光圀はどうして水戸の黄門様と言われたのか  カタリベ茨城

光圀の生涯を少年時代の興味深いさまざまなエピソードをもとに解説しています。

②水戸光圀の言葉にふれよう →TOP

水戸黄門「徳川光圀」名言14選  偉人たちの名言TV

光圀の14の名言を動画で紹介しています。

徳川光圀/水戸黄門 珠玉の名言・格言21選   霞んだ心も輝く、言葉との出会い 心を輝かせる名言集

「苦は楽の種、楽は苦の種と知るべし」「誕生日は、最も粗末な食事でいい。この日こそ、母を最も苦しめた日なのだから」「おざなりの情愛は、人にも馬にも害をもたらす」などはっとさせられる言葉に出会うことができます。

③水戸光圀の生き方から学ぼう →TOP

No.1391 水戸光圀公 ~ 多くの先人の志と生き様を描いた『大日本史』  国際派日本人養成講座(動画+読み物)

光圀が『大日本史』として完成する史書の編纂を始めたのは30歳の時でした。光圀は73歳にして亡くなりましたが、史書編纂は水戸藩の事業として続けられ、402巻の史書として完成したのがなんと明治39年です。約250年も続けられたのです。『大日本史』は多くの先人がそれぞれの一隅を照らした志と生き様を史実に即して述べて、道を明らかにするための史書でした。

徳川光圀は、なぜ『大日本史』を編纂したのか  WEB歴史街道

言うことを聞かない光圀に対し、家来の小野角右衛門は自分の意見を書いた「諫草」というメモを書いてはしつこく読ませました。徐々に書かれていることに関心を持つようになった光圀は次第に中国の人物と歴史に関心を持つようになります。これが後に『大日本史』の編纂を志すきっかけになりました。

さらに学ぼう →TOP

御祭神 光圀公と斉昭公~二柱の御祭神について  常盤神社

常盤神社は光圀公・斉昭公の徳をしたう人たちによって偕楽園内に祠堂を創立したことに始まります。

国指定史跡 水戸徳川家墓所  公益財団法人徳川ミュージアム

〇光圀公は家督を綱條公に譲ると、『大日本史』編纂事業に生涯を捧げるべく西山御殿に移り住みました。ここで10年間、編纂の傍ら多くの領民と親交を重ねて多くの人々から「黄門さま」と慕われました。この建物は隠棲の地として華美を嫌った光圀公の信条を垣間見ることができます。

国指定史跡・名勝 西山御殿  公益財団法人徳川ミュージアム

光圀公は家督を綱條公に譲ると、『大日本史』編纂事業に生涯を捧げるべく西山御殿に移り住みました。ここで10年間、編纂の傍ら多くの領民と親交を重ねて多くの人々から「黄門さま」と慕われました。この建物は隠棲の地として華美を嫌った光圀公の信条を垣間見ることができます。

黄門料理  水戸商工会議所

光圀は長寿を全うされた方で、医食同源の思想に基づいて漢方を取り入れていました。食についての関心が深く、うどん・冷麦を打つのが得意であったという記録もあります。また産地にまでこだわりをみせ「地産地消」を実現していました。中国人の朱舜水(しゅしゅんすい)と交流をもち、チーズの一種や餃子、中国製ハムなども食べていたようです。

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