森鷗外
概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう

森鷗外(もり おうがい) 1862(文久2)年~1922(大正11)年
明治・大正時代の小説家、評論家、翻訳家、陸軍軍医。石見国(島根県)津和野藩主の典医・森家の長男として生まれる。幼少時から『論語』、『孟子』に親しみ、父からオランダ語を学んだ。10才で上京してドイツ語を学び、15才で東京大学医学部に入学。19才で卒業後、陸軍軍医に任官。22才から4年間ドイツに留学、帰国後は軍医学校教官を務めるかたわら、小説『舞姫』、アンデルセン『即興詩人』、ゲーテ『ファウスト』の翻訳などを発表し、名声が高まった。日清戦争、日露戦争に従軍し、45才で軍医の最高位・陸軍軍医総監に就任した。
その後『ヰタ・セクスアリス』、『青年』などを発表、小説家として漱石と共に明治文壇に確固たる地位を築いた。
50才の時明治天皇が崩御、その御大葬の日に乃木希典大将夫妻が殉死する。一部知識人はこれを時代錯誤として批判したが、乃木と親交があった鴎外は直ちに主君に殉死した実在の武士の心情を描いた『興津弥五右衛門の遺書』を書きあげ、乃木殉死の衝撃と感動を表現した。以後鴎外の作風は大きく転換し、歴史に題材を求めた『阿部一族』、『山椒大夫』、『高瀬舟』などの歴史小説、『渋江抽斎』などの史伝を発表、さらに歴代天皇の諡号(しごう。天皇崩御後に贈られる名)や元号を考証した『帝諡考』、『元号考』などを刊行した。退職後は帝室博物館総長などを務め、亡くなる直前まで仕事を続けた。肺結核により死去。享年60才。出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
①森鷗外の足跡をたどろう →TOP
『森鴎外とはどんな人?生涯・死因・作品・名言・子孫も解説』 History Style
森鴎外の人柄や思想、作品の特徴、夏目漱石や乃木希典との関係など、様々な面から解説しています。
『森鷗外:領域を横断する巨大な知性 医学者、官僚でもあった近代文学の先駆者』 ニッポン偉人伝
鴎外は文豪である一方、ジャンルを横断する知の巨人でした。また家庭人としては子煩悩な父親で、子供たちは鴎外の死後全員が文筆家となり、父から受けた愛情の思い出を書き残しています。
②森鷗外の言葉にふれよう →TOP
『森鴎外の名言30選|心に響く言葉』 LIVE THE WAY
「足ることを知ることこそが幸福である」 鴎外の味わい深い言葉にふれてみましょう。
『森鴎外「興津弥五右衛門の遺書」は、友人である乃木希典の殉死に捧げられた作品です』 本コミュ読書会
鴎外は殉死という行為の中に、近代化が進み個人主義が浸透していく当時の日本人が忘れかけていた、明治以前の「尊い感情」があると考えました。
『興津弥五右衛門の遺書:森鴎外、乃木希典の殉死を弁蔬す』 日本語と日本文化
鴎外は乃木大将の殉死から5日という短時間でこの作品を一気に書き上げました。殉死事件が鴎外にとっていかに大きな衝撃だったかがわかります。この時の鴎外の日記も紹介。
③森鷗外の生き方から学ぼう →TOP
『森鴎外とはどんな人?生涯・年表まとめ【作品や死因、名言、本名も紹介】』
鴎外は前近代と近代、東洋と西洋、公(軍医)と私(作家)、こうした二律背反の狭間で葛藤しました。近代化の必要性を誰よりも理解しながら、近代化によって失ってはいけないもの(乃木の忠誠心など日本の伝統的価値観)があることも痛感していました。
『森鴎外の名言からの学び。[自ら行動する生き方]』 Study Language ことばをまなぶ
「日の光を借りて照る大いなる月たらんよりは、自ら光を放つ小さな灯火たれ」鴎外の言葉から自身の生き方を考えてみましょう。
さらに学ぼう →TOP
『偉人ガイド 夏目漱石「森鷗外・夏目漱石住宅」編』 偉人ガイド(9分)
奇しくも明治の2人の文豪が数々の名作を生んだのは同じ家でした。鴎外はここで『文づかひ』などを、漱石は『吾輩は猫である』、『坊ちゃん』など多くの作品を執筆します。この家にあった『吾輩は猫である』誕生の思いがけないきっかけとは?
森鷗外記念館
森鷗外記念館は2か所あります。島根県鹿足郡津和野町の森鷗外記念館は、鷗外の生家に隣接し、鷗外の遺品などを展示しています。東京都文京区の森鷗外記念館は、森鷗外が半生を過ごした旧宅「観潮桜」の跡地に建てられた記念館で、多数の書簡、原稿、遺品などを展示しています。「観潮桜」でひらかれた歌会には石川啄木、斉藤茂吉らが来会し、文人サロンとなりました。
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