坂上田村麻呂

坂上田村麻呂 758(天平宝字2)年~811(弘仁2)年
平安時代初頭の武将。大和国高市郡・東漢(やまとのあや)氏の一族出身。武術に秀で、四人の天皇に仕えた。桓武天皇の政治を支え、791年に蝦夷との戦いに加わり、戦闘で功をあげた。797年征夷大将軍となり、古代蝦夷経営の成果をあげたことで804年に再度征夷大将軍に任じられた。薬子の変でも政変を鎮圧するなどして活躍。死後は神将や武神、軍神として信仰の対象となった。今も武芸や厄除の神として親しまれ、後世に多くの伝説が生まれた。肖像画は菊池容斎『前賢故実』より。
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征夷大将軍「坂上田村麻呂」の桓武天皇の命による蝦夷征伐って!! 歴史ミステリーチャンネル
坂上田村麻呂の生涯を「蝦夷征伐」の話を中心に、田村麻呂の誕生・征夷大将軍就任・蝦夷のライバル阿弖流為(アテルイ)との戦いと友情などについて解説しています。
坂上田村麻呂は何をした人? その功績と現在に伝えられる人柄までを紹介【親子で歴史を学ぶ】 HugKum
坂上田村麻呂の名前は知っているけど…活躍した時代や功績まではよく知らないという人も多いと思います。坂上田村麻呂とはどのような人物だったのか、そのエピソードをもとに紹介しています。
坂上田村麻呂が進軍した道 過去と未来をつなぐ道
坂上田村麻呂の東北遠征当時、日本はすでに道路の整備が進み、大規模な行軍も可能となっていました。現代の高速道路建設の現場で古代の道路遺構が発見されるのはルートが似ているからだと言われています。道があってこそ人が住み、文化が浸透します。田村麻呂は武人であっただけでなく稲作や養蚕を蝦夷の人々に伝播することで文化的に懐柔していく方針を取った戦略家でもありました。
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枚方の民話 第6話『田村麻呂と阿弖流為(アテルイ)』枚方に伝承される「昨日の敵は今日の友・・・」のお話
松愛会 枚方南支部
戦いに勝った田村麻呂は阿弖流為らを連れて京へ戻りました。その道中で、阿弖流為から、「自分の命は捨てても蝦夷のみんなを幸せにしてやりたい」という言葉を聞きました。それを聞いた田村麻呂は「彼は二度と戦う考えは持っていません。陸奥へ帰してあげてください」と必死に阿弖流為の命乞いをしたのでした。しかし…。
阿弖流為と坂上田村麻呂の関係性|処刑に至るまでの話 ヤマトノ塾
奈良時代末期から平安時代にかけて阿弖流為(アテルイ)が東北地方の族長として名を馳せていました。桓武天皇は東北地方の支配を目指すべく坂上田村麻呂を向かわせます。いま、阿弖流為と坂上田村麻呂の関係性が注目されています。阿弖流為が処刑に至るまでの流れと2人の関係性について詳しく紹介しています。
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伝承昔話 三春駒のおこり うつくしま電子事典
福島県・三春町の郷土玩具「三春駒」は、お坊さんにもらった百頭の小さな木彫りの馬が田村麻呂を助けてくれたという伝説をもとに生まれました。
坂上田村麻呂伝説 田村市
田村市内に残る坂上田村麻呂の伝承は大多鬼丸を討つための戦いに関するものが多いのが特徴です。そのため、田村市内の地名の由来の多くが田村麻呂伝説に結び付けられています。
2019年 坂上田村麿「ねぶた伝説」 HITACHI
坂上田村麻呂は八甲田山中へ立てこもる女首領・阿屋須と弟・屯慶を攻めますが苦戦を強いられました。そこで茅で大きな人形を作らせ、笛・太鼓・鉦をたたき囃し立てたところ、何事かとその珍しさに現れた者たちに二人の居場所を聞き出して討った、という伝説があります。ここにある坂上田村麻呂の「あらすじ」はねぶた師が作成したものです。ねぶた本体を制作する際、文献を参考にしながらねぶた本体に関連するように若干の修正を加えて作っています。
達谷窟[史跡](平泉町) 平泉
坂上田村麻呂が蝦夷討伐の戦勝記念と仏の加護への感謝を込めて造営したと伝えられています。達谷窟には悪路王という蝦夷の首領が住んでおり、田村麻呂に征伐されたという伝説が残っています。
山崎朝雲作・坂上田村麻呂 京都市京セラ美術館
今まさに戦いの場へと出立しようする田村麻呂の雄姿が捉えられた彫刻作品です。甲冑で身を固め、左手で刀を持ち、右手の拳を握りしめています。
坂上田村麻呂が討伐?33本の「鬼の牙」が残る寺 朝日新聞デジタル
岩手県大船渡市の長谷(ちょうこく)寺には33本の「鬼の牙」が保管されています。言い伝えによると、この地域には「赤頭」と呼ばれる「蝦夷」が暮らしていおり、朝廷に「鬼」として恐れられていたのだと言います。
アメリカの公民権運動に利用され、欧米で流布した「坂上田村麻呂=黒人説」とは【古代史ミステリー】 歴史人
カナダの人類学者チェンバレンは論文の中で坂上田村麻呂を「黒人」として記述していました。この「坂上田村麻呂黒人説」はアメリカの公民権運動で利用される中で広まったと言われています。どういうことなのでしょうか。
奈良県,奈良時代,武将,AH