未来は輝く太陽のように……――日本の独立を守り抜いた名君・島津斉彬

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「あの御方は、お天道様のような方であったよ」
明治 維新の立役者・西郷隆盛の言葉です。西郷どんが心から敬慕した「あの御方」とは、第十一代薩摩藩主・島津斉彬。幕末の名君として知られ、近代日本の礎を築いた人物です。
斉彬は幼いころ、二人の人物から影響を受けました。一人目は実母の弥姫。当時、大名家の跡継ぎは乳母が育てるのがしきたりでしたが、弥姫は斉彬を手許において母乳で育て、さらに中国の歴史書について自ら斉彬に講義しました。
二人目は曾祖父の島津重豪。斉彬が十一歳のころ、重豪が大切にしていたオランダ製のガラスの器を、家臣が過って割ってしまうという事件が起こりました。ガラスの器はセットになっており、その一つが欠けては意味をなさないと、重豪は激怒。それを知った斉彬は、ガラス器のセットを自分に譲ってほしいと懇願し、重豪からそれをもらい受けます。
「持ち主の私が一つ欠けていてもいいと喜んでいる以上、家臣をこれ以上責めないでほしい」という斉彬の真意を察した重豪は、その知恵と優しさに舌を巻いて、家臣を許したそうです。もしかしたら斉彬は、「ガラス器の一つや二つ壊れたところで、何ほどのこともない。家臣こそ宝である」と、言外に伝えたかったのかもしれませんね。
西洋文明に精通し、家臣と中国語で会話することもあったという、重豪。その豊かな国際感覚を受け継いだ斉彬は、後年、時勢を的確に読み解き、西欧列強が強大な軍事力を背景に、アジア・アフリカ諸国を次々に植民地にしていると、危機感を抱きます。そして四十三歳で薩摩藩主となると、日本が独立を保てるよう、改革に挑みました。
下級武士だった西郷を発掘し、登用したのも斉彬。土佐藩の漂流民で米国から帰国したジョン万次郎を保護し、彼の海外経験や知識に学び、西洋式帆船や国産蒸気船の建造に成功したのも、斉彬の功績です。
しかし、すべてが順調に進んだわけではありません。独立を守るためには技術力で西欧に並ぶ必要があり、鉄を大量に生産するための反射炉の建設が不可欠ですが、この反射炉の実験に薩摩藩は何度も失敗しているのです。肩を落とす人々を斉彬は決して怒ることなく、励まし続けました。
殖産興業と富国強兵をめざして
斉彬の期待に応え、薩摩藩は産業革命を成し遂げますが、そこには顕著な特徴がありました。それは製鉄・造砲・造船など軍事の分野だけでなく、薩摩切子(ガラス製品)・紡績・薬品・食品・印刷・出版・写真・電信・ガス灯など技術革新の分野が多岐に亘り、しかも生活に密着していることです。
「国を守るためには軍艦や大砲も必要だが、もっと大切なのは国民が力を合わせ、気持ちを一つにすること。人々が豊かに暮らすことができれば、人は自然とまとまる。人の和は、どんな城郭にも勝る」
これが、斉彬の考えた日本の独立を守る道だったのです。それゆえ彼は、日本中の人々を豊かにしようと、苦労に苦労を重ねてようやく確立した技術を、惜しげもなく他藩の人々に公開しました。各藩がそれぞれの利益を追い求め、いがみあっていた時代にありながら、斉彬は「日本国」「日本人」を意識していたのですね。
その斉彬の思いを象徴するのが、日の丸です。幕末、国際法に従い、船舶に日本総船印を掲げる必要が生じます。斉彬は「日の丸」を幕府に提案、これが後の国旗につながるのです。
「あの輝き出づる太陽の光を以て、鎖国の夢を覚まさなければならぬ。日本の将来は、古代から日本人が命の恩として愛してきた、輝く太陽のようでなければならぬ」
桜島に昇る朝日に、日本の未来を重ねた斉彬。日の丸は、どのようなときも太陽のようにあってほしいという、斉彬から未来の私たちに託された希望そのものだったのです。
出典:『れいろう』令和2年6月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より