近松門左衛門
①近松近松門左衛門ってどんな人物?
近松門左衛門 文楽編 文化デジタルライブラリー
近松門左衛門(1653~1724)は江戸時代前期の元禄時代に活躍した浄瑠璃や歌舞伎の脚本作家です。越前藩の武士の子として生まれています。しかし父は藩を辞して浪人となり一家で京に移り住み公家に仕えています。その縁で近松門左衛門は人形芝居に接し浄瑠璃を書くようになります。浄瑠璃とは室町時代に起こった物語を語って聞かせる芸能です。三味線の伴奏がついて音楽の要素も組み入れて発展しますが、江戸時代に大阪で初世竹本義太夫(1651~1714)が人形で物語を演じさせる人形浄瑠璃として大ヒットしました。後にこの人形浄瑠璃を上演していた大阪の劇場名にちなみこの流れを文楽とも言います。その竹本義太夫に人形浄瑠璃の物語(脚本)を提供したのが近松門左衛門です。一方で近松門左衛門は京都で活躍していた歌舞伎の初世坂田藤十郎(1647~1709)のために脚本を書き大成功をおさめます。
②近松文左衛門の言葉にふれ、生き方から学ぼう
近松門左衛門の生涯
芝居の脚本以外はほとんど言葉を残していませんが、冒頭に掲げた絵は自画像でそこに自筆で自分の出自と辞世の歌を書いています。自画像は烏帽子をかぶり正装姿です。元武士としての矜持が感じられます。出自では(現代文訳)「甲冑を身に着ける家に生まれながら武士を捨て、町人の中に漂って暮らしたが商売を知らず、- - - - 物知りのようであっても何も知らず、まったくのまがい物である。昔からの道徳から芸能・お笑いの類まで知らないことはないかのような顔をして口にまかせ、筆が走るまま一生を鳥のようにさえずりちらしてきた。今わの際に言うべき、思うべきことばも思い浮かばず戸惑っている。恥ずかしい七十年あまりの歳月であった。思えばあやふやな一生をここに終える。」とあります。偉大な功績をあげ、芝居で大評判をとった作者にしてはほとんど自分を卑下しているかのような文章です。多くの人を引き付け、涙を流して興奮させた作者として何も誇っていません。しかし近松門左衛門は人間の本質に迫りその本質を分かりやすい言葉で演者に語らせることで芝居を見る者の心の奥底にある感情をふるわせたのだと思います。残す言葉は無く芝居を見てくれと言っているようです。これらの文章に続いて辞世(死に臨んで残す和歌)の和歌を原文で紹介しましょう。 もし辞世はと問人あらばそれぞ辞世
去ほどに扨(さて)もそのゝちに残る桜が花しにほはゞ
享保九年中冬上旬
入寂名 阿耨院穆矣日一具足居士 不俣終焉期 予自記 春秋七十二歳
のこれとはおもふもおろかうづみ火のけぬまあだなるくち木がきして 一首目は「自分が死んでも残る桜の花の香りが匂うならばそれが辞世である」という意味です。 二首目は「残ってほしいなどとは思うも愚かだ灰に埋もれた火が消え残るはかない枯れ木のようなものだから」の意味です。 偉大な仕事をなした人は自分の実績を誇るのではなく後世の評価に委ねるということでしょう。近松門左衛門は時代を超えて約300年後の現代においても私たちに深い感動を与え続けています。
さらに学ぼう
近松門左衛門の墓所
近松門左衛門の墓所は二か所が知られています。大阪市の法妙寺跡地と兵庫県尼崎市の広済寺にあります。
人間浄瑠璃 文楽 文化デジタルライブラリー
人形浄瑠璃文楽とは江戸時代に大阪で生まれた日本独自の伝統芸能です。三人の人形つかいが人形を操り、三味線の伴奏で太夫が物語を表情豊かに語ります。この三位一体となった演技は人が演じる芝居以上に見る者を引き付け、人形の動き一つ一つが観客の心を捉えてまるで人形使いがいないかのような舞台空間が生まれます。
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