地球の大きさを知りたかった男 ──55歳からのチャレンジ・伊能忠敬

自分の手で地球の大きさを測りたい

水郷として知られる千葉県の佐原(香取市)。江戸時代の風情が残る川沿いの一角に、伊能忠敬記念館があります。この地をふるさととする一人の男性の寄付金によって建てられました。地域の人々からこれほどの敬愛を受ける忠敬とは、どのような人物だったのでしょうか。

伊能忠敬は、約二百年前に日本初の実測地図を作ったことで知られます。しかし、それは後半生の話。忠敬の前半生は商人でした。十七歳で佐原の造り酒屋の婿養子となった忠敬は、経営不振に喘いでいた家業を見事に再建します。全国で約九十万人の死者が出たとされる天明の飢饉に際しては、酒造用の備蓄米を地域住民に無償で配り、佐原から一人の餓死者も出しませんでした。

その忠敬が五十歳を目前に隠居し、第二の人生を歩み始めます。江戸の浅草に出て、当代随一の天文学者・高橋至時に弟子入りしたのです。このとき忠敬は五十歳、至時は三十一歳。昼は至時に学び、夜は自宅で天体観測という過酷な昼夜の研究に、忠敬は嬉々として取り組みました。

やがて忠敬は「自分の手で地球の大きさを測りたい」と強く思うようになります。緯度の違う二つの地点で北極星を観測し、見上げたときの角度の違いと二地点の間の距離を測定することで、地球の外周を算出できる——、忠敬はそんな方法を考え出しました。至時のアドバイスを受けて、忠敬が観測地として選んだのは、江戸と蝦夷地(現在の北海道)。蝦夷地に渡るには幕府の許可が必要であり、その許可を得るための理由が、「地図を作りたい」だったのです。当時、蝦夷地近海には外国船がたびたび出没しており、国防に欠かせない、正確な地図を求めていた幕府は、二つ返事で許可を出しました。

ただし、ここで二つの壁が立ちはだかります。一つは、幕府は忠敬の願いを許可しただけなので、測量にかかる莫大な経費に関して、幕府からの援助は期待できないこと。もう一つは、当時の日本には、方位磁石と北極星の観測に使う簡単な道具(巨大な分度器と初歩的な望遠鏡を組み合わせたようなもの)はあり、また土地の高さを測ることもできましたが、距離を正確に測れる機械がなかった、ということです。

驚異の精度を可能にした測量法

忠敬は意外な方法で二つの壁をクリアしていきます。まず、現代の貨幣価値に換算して優に三千万円を超えたと言われる測量の経費は、その大部分を忠敬が自分で用意しました。三十年以上も家業に打ち込んできた忠敬には、それだけの経済的なゆとりがあったのですね。そして距離を測るために、忠敬が編み出したウルトラC。それは、測量隊に徹底的に歩く練習をさせること。ピタッ、ピタッと、どんな状況でも同じ歩幅で歩けるように、測量隊
の隊員たちは、来る日も来る日も歩き続けました。

こうして迎えた寛政十二(1800)年閏四月十九日、ついに測量隊は出発。忠敬、五十五歳にして新たな挑戦が始まったのです。人の足と方位磁石を頼りに緻密な海岸線を描くという、気の遠くなるような作業が積み重ねられます。目撃者の記録には、「測量隊はいかなる難所もお通りなされ候」と簡単に記
されているだけですが、そこには、言葉では言い尽くせない苦労があったことでしょう。

約三年後、東日本の測量を終えた忠敬は、地球の大きさの計算に取りかかりました。このとき忠敬が弾き出した地球の外周は、GPSやスーパーコンピュータなど、現代の技術を駆使して導いた数字とピタッと一致しているのです。誤差は、わずか0.1パーセント以下。まさに驚異の精度! この驚くべき精密さで描き上げた奇跡の地図が、いよいよ幕府に献上されます。

身も心も捧げた地図作り

天命に導かれるようにして、日本初の実測地図の作成に挑んだ伊能忠敬。彼は約三年かけて東日本の測量を終えると、それを地図にし、幕府に献上しました。十一代将軍・徳川家斉は、そのあまりの精密さに息をのんだといいます。そして忠敬に、「西日本も含む日本全土の地図を作成せよ」と命じます。忠敬の地図作りが、正式な国家事業と位置づけられたのです。

文化二(1805)年、忠敬は西日本に向けて旅立ちました。この西日本の測量は、六十歳を超え、体力が衰え始めた忠敬には非常に過酷なものでした。忠敬が関門海峡を越え、九州から娘に出した手紙には、次のような文面が見られます。「歯はほとんど抜け落ち、一本になってしまった。もう、好きな奈良漬も食べることができない」実は忠敬は、このときすでに心から尊敬する十九歳年下の師匠・高橋至時を病で失っていました。

さらに九州では、最も信頼する測量隊の副隊長も病で亡くなります。身体だけでなく、心もボロボロだったのです。それでも忠敬は測量を完了させました。悲しみを乗り越えて——。五十五歳からチャレンジを始めて足かけ十七年、測量のために歩いた距離は、実に四万キロ。地球一周分に相当します。
残る作業は、測量のデータをもとに地図を作成すること。しかし、忠敬は肺を病み、完成を見ずに七十三歳で亡くなりました。

忠敬の地図作りを引き継いだ弟子たちは、忠敬の死を隠して描き上げます。もしその死を公表していれば、歴史に名が刻まれたのは一番弟子の「高橋景保」だったはず。でも彼はそれをしませんでした。それはおそらく、尊敬する師匠の名をこそ歴史に刻みたかったからでしょう。

忠敬の喪が公表されたのは、わが国初の実測地図『大日本沿海輿地全図』が幕府に献上されてから、およそ三か月後のことです。それにしても、なぜ忠敬は身も心も傷つきながら、途中で投げ出すことなく、偉業を達成できたのでしょうか。

忠敬が残した後世への思い

第一回の測量にあたって、忠敬は「隠居の慰みとは申しながら、後世の参考ともなるべき地図を作りたい」と、その決意を幕府への手紙に綴っています。彼を支えたのは、「自分の為すことが、必ず後世の日本人のためになる」という誇りだったと思うのです。では、忠敬のいう「後世の日本人」とは、誰でしょう? そうです、私たちです! 私たちは、こんなにも忠敬に大切に思われていたんですね。この国には、なんと愛が溢れているのでしょう。

この「後世の日本人のため」という忠敬の思いは、現実のものとなります。忠敬の死から三十五年後の嘉永六(1853)年、ペリー来航――。欧米列強は、日本を科学技術の立ち遅れた後進国と決めつけていました。ところが西洋の器具や技術を持たない日本に、世界水準の地図が存在したのです。その精度の高さに驚愕し、彼らは日本を見下す姿勢を改めたと言われています。

当時、アジアやアフリカの国々が次々と欧米列強の支配下に置かれる中、ついに独立を守り通すことができたのは、アジアではタイと日本だけ――。なぜ日本が独立を守り通すことができたのか、その理由の一端が、私は伊能忠敬の人生に象徴されていると思います。

忠敬に代表されるように、多くの日本人がみんなのことを考え、次の世代のことを考えて生きていた。つまり、高い志を持っていたということ。さらに、その志を叶えるだけの技術力を磨き上げたこと。それが、独立を守り通せた一番の理由ではないでしょうか。崇高な精神性と高い技術力。先人たちが未来の私たちのために育んでくれたものを、今度は、私たちが未来へ送っていきたいですね。

出典:『れいろう』令和2年7月号「ふるさと偉人伝」白駒妃登美著より

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