大隈重信

(おおくましげのぶ)

1838(天保9)年 〜 1922(大正11)年

佐賀藩士。7歳で藩校の講道館に入る。1855(安政2)年藩校の改革を訴えて退学となるが、その後も学びを続け、英語で外交交渉できるまでとなる。外国事務局判事としてイギリス公使パークスでとの交渉を行うなど手腕を発揮する。1870(明治3)年参議となり、1873(明治6)年大蔵卿に就任するなど外交・財政・経済などさまざまな分野で活躍する。明治14年の政変で政府の役職を降りるが、1882(明治15)年立憲改進党を組織し、同年東京専門学校(早稲田大学の前身)を創立する。第1次伊藤、黒田両内閣の外相として条約改正に関与し、第2次松方内閣の外相兼農商務相など大臣の要職に就いた。1898(明治31)年憲政党を組織し首相に就任したが、短命に終わった。一度政界を引退したが、1914(大正3)年再び首相となり、第一次世界大戦に参戦する。1922(大正11)年死去。

①大隈重信の足跡をたどろう

佐賀の七賢人(3)/めざせ!佐賀博士2 NHK for school

大隈重信と副島種臣について、何をおこなった人なのかわかりやすく説明しています。

「吾が輩のこともっと知ってほしいのである 大隈重信って何者?」

早稲田大学創立者である大隈重信の人物像を、身長は180センチあった、ハウス栽培をしていてメロンを育てていたなど多角的にエピソードをまじえてわかりやすく紹介しています。

戦国BNASHI

明治維新までの大隈重信を詳しくわかりやすく解説しています。

「明治のイノベーター大隈重信」

2021年に佐賀県は佐賀の偉人・大隈重信没後100年を契機に、改めて大隈重信の功績を顕彰して佐賀への誇りや愛着を醸成することを目的として、「大隈重信100年アカデミア」を開催しました。その一環として作成された1時間番組です。鉄道や貨幣など大隈がおこなった事柄や人物像を映像を交えてわかりやすく説明しています。

「襲撃事件にて足を失うも内閣総理大臣を2回務めた伝説の人物・大隈重信」

日本の第8代・第17代内閣総理大臣にして『東京専門学校』(のちの早稲田大学)の創設者。さらには襲撃事件に遭い右足の3分の1を失いながらも「我輩は、爆弾ぐらいで青くなるような腰抜けじゃない。そんなもの屁とも思っていない」と言ってのけた鉄人でもあります。

大隈重信の言葉にふれよう

「超前向き!大隈重信の元気・勇気が出る名言を紹介」

「大隈重信の人生は意外と思い通りにいかないことが多かった」「大隈は失敗を人生の糧と捉えていた」「右脚を切断してもポジティブだった」「大隈五訓は座右の銘としておすすめ」

「大隈重信の名言 総理大臣・早稲田大学創設と幅広く活躍した男」

「諸君は必ず失敗する。成功があるかもしれませぬけれども、成功より失敗が多い。失敗に落胆しなさるな。失敗に打ち勝たねばならぬ。」

大隈は大隈重信五訓など様々な名言を残していますが、一つ一つ説明しながら紹介しています。

大隈重信の生き方から学ぼう

大隈重信が追い求めたもの

平成26年5月に佐賀の大隈記念館で大隈祭が開催されました。その際に行われた早稲田大学教授島善高先生の講演録です。島先生は『佐賀の偉人大隈重信』(佐賀県立佐賀城本丸歴史館出版)の著作があります。

「大隈さんのモットーである「人のために善をなせ」は、この『葉隠』の「大慈悲を起し人の為になるべき事」に由来するのです。心の奥底にこの慈悲心がないと、人を哀れむという気持ちがないと、なかなか利他行なんてできるものではありません。」

No.1290 大隈重信 ~ 国民の元気と輿論を喚起した最高齢首相 国際日本人養成講座

76歳と史上最高齢で首相になった大隈重信は、盛んに国内各地を遊説して、国民の元気と輿論を呼び起こした。

同一内容の動画版です。

さらに学ぼう

「大隈重信 明治・大正きっての傑物」佐賀観光協会

佐賀県にある大隈重信ゆかりの地を紹介しています。大隈重信が実際使っていた勉強部屋は今も残っています。

大隈重信記念館

佐賀にある大隈重信の記念館のHPです。


「渋沢栄一と大隈重信」真辺将之/早稲田大学文学学術院教授

大隈と大隈の誘いで大蔵省に入った渋沢栄一の亡くなるまでの長い交友について語っています。

『大隈重信演説談話集』早稲田大学編 岩波文庫

大隈重信は演説の名手でした。この本には日露戦争後の1910年から死去直前の1922年までの大隈重信の演説・談話が収録されています。大隈の言葉をぜひ読んでみてください。

by カエレバ

「演説:憲政ニ於ケル輿論ノ勢力」国立国会図書館デジタルコレクション

国会図書館には歴史的音源としてレコードの音源が保存されており、いろいろなレコードを聴くことができます。大隈重信の実際の声もここで聴くことができます。1915(大正4)年に首相であった大隈重信が吹き込んだもので、日本蓄音器商会が発売し大ヒットしました。1921(大正11)年に大隈が亡くなった際に同じ内容のレコードが再販されましたが、そちらが音源となっています。

佐賀県佐賀市 明治時代 政治家 AR

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