八田與一

(はった・よいち)

八田與一は1886年石川県金沢市生まれ。1910年に東京帝国大学工学部土木科を卒業後、台湾総督府内務局土木課の技手として就職し、台湾の水利事業の発展に従事した。
その事業は上下水道、水力発電、灌漑等の広範囲に及んだ。なかでも灌漑設備が不十分であったため干ばつも起こっていた台湾南部の嘉南平野の灌漑改善を提案し、完成まで工事の指揮をとったことは特筆される。官田渓の水をせき止め烏山頭ダムという大貯水池を完成させ、その水を嘉南平野一帯に張り巡らせた水路によって平野の隅々まで潤すという工事であった。この一連の工事によって嘉南平野は大穀倉地帯となり、台湾の民生向上に大きく寄与した。

工事完成は1930年のことであった。この水利設備全体は嘉南大圳(かなんたいしゅう)と呼ばれその事業に力を尽くした八田與一は今なお台湾人の尊敬を集めている。

①八田與一の足跡をたどろう

1 民衆のために生きた土木技術者 八田與一

八田與一の学生時代から、嘉南大圳の建設の苦労、農民たちの感謝まで、現地の映像をふんだんに含めて、紹介しています。

4 台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(1)

東京帝国大学土木工学科を卒業した八田與一は卒業翌年1910年に台湾総督府土木部へ赴任する。24歳であった。台湾北部の桃園台地に「桃園埤圳」と呼ばれる灌漑工事に従事した。

その後、台湾西南の嘉南平原の調査を行いこの地の灌漑計画を立案する。

台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(2)

その計画とは平原の河川からの取水のほか有効貯水量1億5000万トン「烏山頭ダム」を構築して嘉南平原の隅々まで水路で給排水するネットワークであった。実に工事着手から10年後のことであった。その後1942年5月フィリピンの灌漑施設の調査を命じられた八田與一であったが乗船した船がアメリカ潜水艦の魚雷攻撃を受けて東シナ海で沈没し帰らぬ人となった。56歳であった。妻の外代樹夫人は終戦後の1945年9月夫が心血を注いだダムの放水プールに身を投げて自死された。

台湾を変えた日本人シリーズ:不毛の大地を緑野に変えた八田與一(3)

八田與一の功績を忘れない台湾の人々は八田の銅像をダムのほとりに建て感謝の気持ちを表した。その後、敗戦により日本は台湾を放棄するが八田の銅像は現地の心ある人々によって守り継がれている。

②八田與一の言葉にふれよう

17 台湾で愛された日本人、八田 與一

生粋の土木技術者であった八田與一は言葉ではなく多くの実績によって語り継がれている。そして今なお彼の意思、情熱、そして偉大な業績を感謝をもって多くの人が語り続けている。

③八田與一の生き方から学ぼう

李登輝 日本人に知ってほしい「八田與一像への台湾人の思い」

台湾の元総統で台湾を平穏理に民主化に導いた李登輝氏は、台湾人はもとより日本人に対しても「台湾に情熱を注いだ八田與一に思いをいたし、台湾を見守ってほしい」と語っている。

No.216 八田與一 ~ 戦前の台湾で東洋一のダムを作った男(国際派日本人養成講座、動画+読み物)

八田與一は台湾の人々と心と力を合わせて、東洋一のダムを作りました。

さらに学ぼう

1 常設展 | 金沢ふるさと偉人館

八田與一の生まれ故郷である金沢市のふるさと偉人館です。

科学の遺産と未来 (2)水のインフラ【後編】不毛の大地に水を届ける 台湾・嘉南平原

八田與一の設計した嘉南大圳の仕組みを詳しく知り、世界の国づくりへの貢献について考えてみよう


石川県金沢市 台湾 土木技術者 大正時代 昭和戦前 AK

八田與一” に対して2件のコメントがあります。

  1. 落合 則之 より:

    4月から長男が横浜市立港南台3中に入学します。
    是非、この感想文祭りを 取り入れてほしいです。

    1. rekijin より:

      ありがとうございます。ぜひ社会科担当の先生にご希望をお伝えください。info@rekijin.netにコンタクトいただければ、実施までサポートさせていただきます。

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