推古天皇

(すいこてんのう)

第29代欽明天皇の皇女で第30代敏達天皇の后であられた。585年敏達天皇の崩御後、即位された用明天皇は587年に崩御され蘇我馬子の推す崇峻天皇が即位された。しかし崇峻天皇はその馬子の指図で592年に暗殺された。このような混乱の中593年に女性天皇として即位されたのが第33代推古天皇である。推古天皇は厩戸皇子を皇太子・摂政とし、冠位十二階や十七條憲法の制定など律令国家の基礎を築かれた。

①推古天皇の足跡をたどろう

「推古天皇を5分で! 聖徳太子との関係や即位の理由は?」

推古天皇は聡明な女性として伝わっています。豪族間の勢力争いが激しくなる時代に天皇が次々に代わります。その中には天皇が暗殺さるという前代未聞の事件も起こります。その時に政治の中心に立ち国全体をまとめる役目を担われたのが推古天皇であったのです。

「まんがでみる推古女帝物語」

②推古天皇の言葉にふれよう

「【日本国創成のとき~飛鳥を翔た女性たち】推古女帝編」

推古天皇の言葉や文章は残されていません。しかし推古天皇の推進した仏教興隆の御事績から推古天皇の目指した政治の在り方や国家運営の考え方が見てとれます。

③推古天皇の生き方から学ぼう

「推古天皇と聖徳太子」(奈良県文化資源活用課)

冠位十二階、憲法十七条、遣隋使の派遣となって制度化された。こうして聖徳太子と二人三脚の働きで今に至る日本の骨格が出来上がりました。

さらに学ぼう

「推古天皇御陵」(宮内庁 天皇陵)

古事記では推古天皇の御陵について「御陵は、大野岡(おおのおか)の上にありしが、後に科長(しなの:大阪府太子町山田)の大陵(おおみささぎ)に遷す」とありこちらが推古天皇御陵とされています。

推古女帝→ゆかりの地一覧→植山古墳

最初に葬られた大野岡の上に、推古天皇は夭逝した愛息の竹田皇子との合葬を望んだとされており発掘調査で二つの石室が見つかっています。(植山古墳))


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