大原幽学
大原幽学(おおはらゆうがく) 1797(寛政9年)~1858(安政5年)
世の中が混乱した江戸幕末期に当時荒れ果てていた下総国香取郡長部(ながべ)村(現在の千葉県旭市長部)で、農民の教化と農村の改革に取り組み大きな実績を残しました。その内容は農業技術の指導に留まらず生活指導、教育にまで及び地域の生活全般の向上を目指すものでした。肖像画は大原幽学記念館提供。
①大原幽学の足跡をたどろう
千葉県旭市「農村を救った知の侍 大原幽学」 cityAsahi
大原幽学は尾張藩重臣の大道寺玄蕃の次男として生まれたとの説があるものの資料は残っていません。そして18歳の時に果し合いの末に藩の剣術師範を切り殺したために父の勘当をうけ各地を放浪の旅をしつつ武術で生きていきます。しかしそれもむなしいと悟り、学問の道に向かうことになります。その途中、近江伊吹山の禅の提宗(ていそう)和尚の教えにより自分の学問を人々を救うことに活かそうと決心します。そして信州上田、小諸の商人層を対象に教化活動を始めました。この結果、門人は400名に上ったとされています。しかし天保2年35歳の時に上田藩を去りました。これは400人もの人を集めて教えを説く行為に藩が警戒したためと言われています。その後幽学は江戸を経て安房国(現在の千葉県)に入り下総(現在の千葉県北部と茨城県南西部)各地で教化活動をします。そこで長部村の名主の遠藤伊兵衛(えんどういへえ)の訴えを聴きました。遠藤伊兵衛の訴えは疲弊した長部村を幽学の力で救ってほしいということでした。当時幽学が説いていたのは「性学」と呼ばれる実践的な道徳でした。この訴えを聞いて幽学は農民指導に専心することを決心します。天保6年(1835)幽学39歳の時でした。このころ各地では打ち続く冷害によりコメの不作が続き餓死者が出るという悲惨な状況が起きていました。天保の大飢饉と呼ばれます。幽学は長部村に入り性学による心構えを説き実践的な方法を考案します。それは先祖株組合と呼ばれる共同組合の仕組みです。先ず地主や豊かな農民が資金を積み立てその資金を貧しい農民に提供することで村全体を豊かにすることでした。その他にも生活に必要な物を共同で購入することや耕地地割と呼ばれる耕地整理と家屋の配置換え、正条植(せいじょううえ)と呼ばれる農業技術の実践も行っています。これは稲を規則正しく植えることで稲の生育を促進することでした。また年中仕事割と呼ばれる年間スケジュールの作成や宵相談と呼ばれる翌日の予定を各戸ごとに行うよう指導しました。幽学の行った実践は現代でいう会社経営の方法に似ています。自立可能な農民が少額ずつ資金を出し合って先祖株組合という組織で貧しい農民の自立を手助けする自助と共助の仕組みです。このような幽学の教えは改心楼(かいしんろう)と呼ばれる学堂を立てて農民を指導するまでに拡大しました。しかしこのような幽学の実践活動は幕府の嫌疑を招き取り調べを受け裁判を受けます。この取り調べは6年に及び下された判決は100日間の江戸押し込め(江戸の屋敷で謹慎)という比較的軽いものでしたが、この6年にも及ぶ幽学の不在は長部村に決定的な影響を与えます。改心楼は取り壊され先祖株組合も解散させられ幽学の農民指導は不可能になっていました。その様子を見た幽学は再起する道はなく、もはやこれまでと思い村の墓地で武士としての作法に則り切腹して果てました。時に安政5年(1858)3月8日、幽学62歳のときでした。
②大原幽学の言葉にふれよう
行条(ぎょうじょう)突合セ会席議定
大原幽学は「微味幽玄考」という大部の著作を残していますがここでは改心楼に掲げられていた「行条(ぎょうじょう)突合セ会席議定」を紹介します。これは討論を行う場合のルールといったい意味です。幽学は改心楼で講義をしましたが道友と呼ばれる門人も演台に上って道友同士で討論を行わせました。その討論の模様は「義論集」として刊行されていますがその討論(=行条突合せ)のルールを掲示しました。その中に「会席中酒之酔人無用之事 并(ナラビ)ニむだ口 不幕引 差出口 穴さがし 道友之外他人之噂無用之事 附リ 一人発言すれハ 一統静マリ能々味ひ其善悪を分ケ知り……」とあります。会議には酒に酔っている人は入ってはならない。無駄口や出しゃばった口出し、人の欠点や過失を探して追及したり、噂話をしてはいけないこと。一人が発言すれば皆は静かに聞き味わいその良否をよく考えること。といった基本的なルールです。これは幽学自身を含む参加者が同じ目線で物事を捉え平等に実践して行こうという心構えを説いています。現代の議論でもつい我欲が出て自分に執着してしまうことがありますね。自戒すべきルールでしょう。
③大原幽学の生き方から学ぼう
『ちば見聞録』#033 「房総の偉人~大原幽学~」(2015.5.16放送)【チバテレ公式】
大原幽学は各地を放浪の後、長部村に落ち着き農業指導を始めますがその考え(性学)の基本は「和」と「孝」でした。しかしそれは抽象的な概念ではなく実践的でした。幽学の唱える和とは先祖株組合に代表される皆が力と資力を出し合って互いに助け合う相互扶助の考えでした。また孝とは家族としてまとまり一戸の家として自立することを目指す考えです。天保の大飢饉と呼ばれる天災に立ち向かうためには個人として分散するのではなく何よりも家族として結束するとともに足りない部分を大勢で補い合うことが大切と考えました。しかし幽学の孝の考えは家族のみの排他的な考えではありませんでした。幽学はお互いに自分の子どもを預けて躾や教育をしてもらう「換子教育」と呼ばれる里親制度の方法を実践しています。他人の子どもの面倒を見ることで地域の連帯を図るとともに手元にいないわが子への愛情も一層増すと考えたのでしょう。現代でも山村留学や離島留学として一定期間親元を離れて農村や離島の里親の下で学校生活を送る方法が注目されています。
さらに学ぼう
大原幽学記念館
大原幽学が活躍した地に記念館あります。
大原幽学遺跡旧宅墓及び宅地耕地地割
旧宅や耕地地割は国の史跡に指定されています。耕地地割はそのままの地割で豊かな農地として使用されています。このあたり一帯は大原幽学遺跡史跡公園になっています。
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