大塩平八郎

概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう 

大塩平八郎(おおしおへいはちろう) 1793(寛政5)年~1837(天保8)年

江戸時代後期の大坂町奉行所与力。儒学者。大坂天満の与力邸に生まれる。幼くして両親を失い、25才で祖父のあとを継いで与力となった。在職中、汚職役人を処罰するなど多くの功績をあげ、清廉潔白な名与力と評された。この間文武の道に励むが特に陽明学(儒学の一派で行動を重んじる)の学者として広く知られ、頼山陽から「小陽明」と称されるほどであった。30才の頃自邸に開いた私塾『洗心洞』で政治刷新を説くなど独自の学風を築くと、平八郎を慕って多くの門弟が集まった。また農村に出講して農民らとも交流、「民を視ること傷の如し」といわれ、後の挙兵の際はこれらの農民が大きな役割を果たした。38才で退職後は学問、教育に専念し、『洗心洞箚記(さっき)』などを著わした。

1836(天保7)年、大飢饉により大坂市中でも餓死者が続出する惨状に直面し、町奉行に度々救急策を上申したが顧みられず、身分をわきまえない不届き者と叱責された。「知行合一(知識と行動の一致)」を重んじる平八郎はついに意を決し、自らの蔵書を全て売り払って窮民に分け与えたのち、密かに近在農村に決起の檄文を送り、翌年「救民」の旗印をかかげて挙兵した。しかし大坂城兵によって一日で鎮圧され、平八郎は姿を隠したが、約四十日後に潜伏先を発見され、包囲されて養子・格之助とともに自決した。享年45。

元与力の挙兵ということで幕府、国民に与えた影響は大きく、平八郎の遺志を継ぐ乱が各地で起き、幕府は天保の改革に取り組んだ。

この「大塩の乱」の決起は失敗に終わったが、幕藩体制崩壊の重大な契機となり、30年後の大変革である明治維新の先駆けの役割を果たし、近代国家日本の誕生に結びついた。   左肖像画は菊池容斎筆、大阪城天守閣蔵。

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①玉大塩平八郎の足跡をたどろう  →TOP

【江戸時代】187 大御所時代と大塩平八郎の乱  YouTube高校(9分)

幕府の偏った政策、商人の買い占めによって大阪では餓死者が続出、正義感の強い大塩平八郎は民を救うためついに立ち上がります。

【歴史解説】民の味方 大塩平八郎! ヒストリーロード(10分)

大塩平八郎の行動の源泉であった陽明学についてもわかりやすく解説しています。

大塩平八郎の乱  刀剣ワールド

もともと幕府の役人であり著名な陽明学者であった大塩平八郎はなぜ決起したのでしょうか。事件の経緯と世の中にどのような影響を及ぼしたのかを解説。

②大塩平八郎の言葉にふれよう →TOP

大塩平八郎の檄文

農民らに決起への参加を呼びかけた檄文の中で、大塩平八郎は幕政を批判し、神武天皇の治世を理想として掲げ、人々を苦しみから救いたいと訴えます。

《原文》
天より被下【くだされ】候村々小前のものに至迄【いたるまで】へ
(中略)此節は米価弥々【いよいよ】高値に相成り、大坂の奉行並【ならびに】諸役人共、万物一体の仁を忘れ、得手勝手の政道を致し、(中略)甚だ以て厚か間敷不届の至り(中略)
此度、有志の者と申合せ、下民を悩まし苦しめ候役人共を先ず誅伐致し、(中略)
必ず一揆蜂起の企とは違ひ追々年貢諸役に至る迄軽く致し、都【すべ】て中興神武帝御政道の通り、寛仁大度【かんにんたいど】の取扱に致し(中略)四海万民いづれも天皇を有難く存じ、父母妻子も養はれ、生前の地獄を救ひ、死後の極楽成仏を眼前に見せ遣わし、尭舜【ぎょう・しゅん】天照大神の御代には復し難くとも、中興の気象恢復【かいふく】とて立戻り申す可く候。(中略)

《大意》
天がくだされた村々の水呑百姓にいたるまでへ
この頃は米価がますます高騰しているが、大阪の奉行、役人どもは万物への分けへだてない思いやりの心を忘れ、自分勝手な政治を行っている。まことに厚かましく、けしからぬことである。(中略)
このたび、有志の者と共に、庶民を苦しめている役人らをまず討ち倒し、(中略)
この挙兵はこれまでの一揆とは違い、今後は年貢・負担を軽減し、(古代に)隆盛を回復した神武天皇のような寛大で思いやりのある政治を行い、全ての国民が天皇をありがたく思い、家族を養うことができ、今の地獄から救い、死後の極楽を目の前に実現し、(古代中国の聖王)尭・舜や(古代日本の神)天照大神の世に戻すのは難しいが、隆盛を回復した神武天皇の思いやりのある政治に戻したい。

大塩平八郎の名言5選|心に響く言葉  LIVE THE WAY

大塩平八郎は自分自身に対しても非常に厳しい人だったことがわかります。

③大塩平八郎の生き方から学ぼう →TOP

大塩平八郎~庶民の反乱~ | 歴史にドキリ   NHK for School(10分)

役人の不正、腐敗を憎んだ平八郎は、飢饉にあえぐ庶民のために挙兵します。挙兵は直ちに鎮圧され、平八郎は自害しますが、平八郎の遺志を継ぐ一揆が各地で起き、幕府の支配体制は揺らいでいきました。

大塩平八郎は何をした人?大塩平八郎の乱の原因を解説!後世に与える影響やエピソードも紹介  識学総研

大塩平八郎は役人らの不正の摘発、告発に尽力しましたが力及ばず、困窮している人々を救うため、ついに命を賭して立ち上がりました。

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大塩平八郎の墓(大塩平八郎の乱)  義民のあしあと

大塩の乱では約2万軒が類焼しましたが、多くの被災者は「大塩様」と呼び、庶民のために立ち上がった平八郎を決して恨みませんでした。

大塩平八郎の墓  大阪再発見!有名人・文化人の墓所

大阪市北区の成正寺にある大塩平八郎父子の墓、洗心洞跡、与力宅門などを紹介。

大塩の乱・5(枚方市)  大阪再発見!名所・旧跡を訪ねて

大阪府枚方市の百姓・深尾才次郎は洗心洞の門下生で、師と共に挙兵し自害します。塩詰の遺体は大塩父子ら20人とともに、市中引き回しの上、磔刑にされました。

大阪,江戸,学者,公正・公平・社会正義,KY

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