関孝和

関孝和(せきたかかず)生年不詳(一説には1639年)~宝永5年(1708)
内山七兵衛永明の二男として生まれ、幼くして甲府藩勘定役の関五郎左衛門の養子となります。孝和の数学に対する知識と向上心が認められ甲府藩主の徳川綱重とその子の綱豊に仕え、勘定吟味役となり藩の会計や検知に従事しました。その後も数学に没頭し、1674年には「発微算法」により未知数を文字で表わす代数の概念を導入して日本における高等数学の基礎を築きました。
①関孝和の足跡をたどろう
江戸科学者列伝-関孝和-江戸の数学を世界レベルにした天才数学者 和算の開祖 大人の科学.net
幼くして関五郎左衛門の養子となった孝和は当時の実用数学書である吉田光由の著した塵劫記を独学したとされます。塵劫記とは命数法(数字の命名法)、単位、掛け算九九、面積、利息計算などの実用計算にはじまり、平方根・立法根の解法など日常生活に必要な算術一般を網羅した内容でした。孝和は塵劫記を基礎に更に内外の数学書を独学し高等数学に没頭します。当時の数学は実用の解法が主眼で算木と算盤などの計算具を用いる方法でした。しかしこの方法では抽象数学に入るには制約があります。次数が多くなると算木が不足するからです。そこで孝和は算木の配列を記号として紙上に描き文字と組み合わせて表現する文字方程式を発明します。記号と文字を用いれば高次多元方程式を容易に作成することができます。この方法によって今まで難問であった数学問題を次々に解きその成果を「発微算法」という書にあらわしました。その評判により甲府藩主徳川綱重、その子の綱豊(後の6代将軍家宣)に仕え甲府藩勘定吟味役さらには幕府直参として暦学、測量術を学びます。
②関孝和の生き方から学ぼう
数学者列伝 下町巨人 ~落語,数学,ボクシング,野球~
塵劫記を独学した関孝和は1674年に刊行した「発微算法」を刊行します。「発微算法」ではそれまで誰も解けなかった難問15問に答えを与えるという内容でその解法が当時の数学界に衝撃を与えました。この著作により関孝和は当時の数学の頂点に立ちました。この著作では算木と算盤を用いて代数方程式を解く従来の方法を格段に飛躍させて数字と文字で一つの式として表現できるようにしたものでした。文字として表現することで未知数を複数個にしたり、消去したりできるなど数式表現が自由にできるようになりました。このような発明により新しい公式や解法が目で見てわかるようになります。その偉業に多くの人が集まり「関流」和算として更に継承・発展していきました。しかし関孝和の生涯は決して恵まれたものではありませんでした。幼くして養子に出され若くして甲府藩主徳川綱重に取り立てられ幕府の改暦事業のために暦学を研究して新しい暦の制定に取り組みます。ところが1678年に仕えていた徳川綱重が亡くなり失意した関孝和は暦学研究から再び数学に戻り数々の数式を考案していきました。その多くは西欧の数学的発見に先駆けるものでした。しかし同じく改暦に取り組んでいた渋川春海の案が採用され失意のうちに生涯を終えます。関孝和は自身の才覚と努力のみで新しい数学分野を切り開いたといえるでしょう。改暦という実用の面では孝和の功績は日の目を見ませんでしたがその理論の蓄積はこの後、江戸時代を通して全国に数学ブームとも言うべき現象が生じさせ日本人の知的好奇心を高めました。
さらに学ぼう
科学の遺産と未来 (4)江戸の科学教育【後編】和算の発展 SCIENCE CHANNEL(JST)
関孝和が切り開いた和算は文字で表すことができるため武士や商人、農民に至るまで
広がり人々は競って数学の難問に取り組みました。その結果を算額として神社に奉納
し今も見ることができます。
関孝和の墓
墓所は東京の浄輪寺にあります。
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戦前の教科書で取り上げられた「関孝和」のご紹介です。ご参考までに・・・
日本の誇り「関孝和」江戸時代の天才数学者 サクラ読本
https://necomaru.jp/207/
尋常科用 小學国語讀本 巻12 昭和13年発行
第二十三 『関 孝和』
戦前の教科書では歴史的人物が多く取り上げられており、戦前はどのような人物像として子ども達に教えられていたのかを知る事が出来、とても興味深いです。