志賀哲太郎

志賀哲太郎(しが てつたろう)1865(慶応元)~1924び、上京して明治法律学校で法律学を学んだ。帰郷後は新聞記者となり、国権党に加盟して政治活動を行ったが、政界の醜悪さに嫌気がさして教育の道に進むことを決意、尋常小学校教員となった。31才の時、日本の統治下に入った台湾へわたり、59才で亡くなるまで小学校の代用教員として台湾の子供たちの教育に半生を捧げた。台湾では就学率が低かったため、子供を就学させるよう親たちを説得して回り、給料は貧しい生徒の学費に充てた。この慈愛に満ちた教育が実を結んで各界で活躍する人材を多数輩出し、台湾の発展に大きく貢献した。しかし総督府の圧力や民族運動が高まる中、生徒の退学処分問題に関連して教職の任を解かれ、入水自決した。神としてまつる形で執り行われた葬儀の参列者は千人を超え、声を上げて哭かない者はなかったという。
志賀は「大甲の聖人」と称えられ、教え子たちが生誕百年を祝って建てた顕彰碑には孫文の子・孫科が揮毫した。また、訪台した木原防衛大臣が「台湾で神のように尊敬されている日本人がいる」と述べたことから志賀の事績は日本でも知られるようになり、故郷の熊本にも安倍晋三首相(当時)揮毫による顕彰碑が建てられた。現在、志賀を敬慕する日本、台湾の人々の交流が盛んに行われ、日台関係進展の機縁の一つとなっている。
①志賀哲太郎の足跡をたどろう
『志賀哲太郎』 台湾台中市大甲区公所 (10分)
台湾台中市大甲区公所が制作した動画の日本語吹き替え版です。台湾の子供たちとの心温まるエピソードなど、志賀哲太郎の人柄や業績を分かりやすく紹介しています。
『志賀哲太郎先生について』 志賀哲太郎先生顕彰会
志賀哲太郎の生涯や考え方などについてエピソードを交えて簡潔に紹介しています。
『志賀哲太郎と台湾』 戎義俊(台北駐福岡経済文化辧事處處長)【志賀哲太郎先生顕彰会・会誌2号】
戎さんは「志賀先生は台湾の学問の神・文昌君が祀られる『文昌廟』に入り、菅原道真のように神様として崇められ、慕われています。志賀先生が体現された日本精神こそが、両国を結ぶ強い絆なのです」と述べられています。(3~4ページ)
②志賀哲太郎の言葉にふれよう
『〈台湾大甲の聖人〉志賀哲太郎と教え子たちの絆』 TKUテレビくまもと(10分)
志賀の教えを心に刻んだ教え子たちは「自分が死んだら志賀先生のそばに葬るように」と言い残し、今も志賀の墓のそばに眠っています。これほど子供たちに慕われた志賀の教えとはどのようなものだったのでしょうか。
『大甲の聖人と呼ばれた志賀哲太郎』 片倉 佳史(武蔵野大学客員教授・台湾在住作家)
「子供のいない自分としては、一身を犠牲にし、全てを捧げる決心をしている」。
教育に命を捧げる覚悟をした志賀哲太郎に対して校長は農園への移動を命じ、教職を失った志賀は自決しました。なぜ志賀は校長に疎まれ、移動させられたのでしょうか
③志賀哲太郎の生き方から学ぼう
『貧困家庭生徒への学費支援』 志賀哲太郎先生顕彰会
志賀は貧しい生徒に学費を提供するなど給料の大半を生徒のために充て、支援を受けた生徒は25年間で300人以上に及びました。
『志賀哲太郎資料集(第4章⑧任官拒否)』 志賀哲太郎先生顕彰会
正教員に昇格すると大甲から転勤させられるため、志賀は校長の勧めを拒否して生涯代用教員を続けました。大甲のために一身を捨てる覚悟を決め、人生を大悟した志賀哲太郎は立身出世には一切頓着しませんでした。 (82~83ページ)
さらに学ぼう
『台湾で「大甲の聖人」と慕われる志賀哲太郎の故郷・熊本県益城町で顕彰の機運』 日本李登輝友の会
志賀の墓がある大甲を訪れた日本の「志賀哲太郎先生顕彰会」の訪問記を紹介。立派な顕彰碑、関連施設での展示など、熊本ではほぼ無名の志賀哲太郎が台湾では格別の扱いを受けていることに驚かされ、改めて志賀の業績の大きさに気付かされます。
『志賀哲太郎について』 澤田寛旨(熊本国際教育を進める会名誉会長)【志賀哲太郎先生顕彰会・会誌1号】
志賀哲太郎の教え子の方たちは「先生は命をかけて大甲を守った」と話します。志賀の自決の背景には、総督府からの圧力、民族運動の高まりなど様々な事情がありました。(8~9ページ)
『No.108 台湾につくした日本人列伝』 国際派日本人養成講座
台湾の人々、特に日本統治の世代の人々はなぜこれほど親日なのでしょうか。志賀哲太郎の他にも台湾のために尽くした多くの日本人がいました。
『「日本は植民地支配をした」の大嘘:メディア・学校が教えない 台湾人の日本統治時代の思い出』 日本志塾・YouTube学園(10分)
蔡さんは「日本統治時代、日本人教師たちは我々台湾人に『愛』をもって接してくれた」と語ります。
熊本県 教育者 明治・大正 KY