杉田玄白

(すぎたげんぱく) 1733(享保18 )– 1817(文化14)
杉田玄白は小浜藩の蘭方医。(江戸時代、長崎出島にはオランダ商館がありオランダ医師が駐在していました。彼らを通じて西洋医学を学んだ日本医師)偶然入手したオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』の翻訳を苦心の末に成し遂げ解体新書として出版し幕末の日本に大きな影響を与えました。翻訳に約二年、出版まで約三年半を要しました。(絵 石川大浪筆 重要文化財)
①杉田玄白ってどんな人?
杉田玄白を知る NPO法人杉田玄白・小浜プロジェクト
1733年小浜藩の藩医杉田玄甫の三男として江戸に生まれました。その後幼少期を小浜で過ごし。父の江戸詰めとともに玄白も江戸へ出て、家業である医学の修業を始めました。特に幕府の医者であった西玄哲にオランダ流の外科を学び大きな影響を受けました。21歳で小浜藩医となり25歳で江戸日本橋に開業します。1765年にはオランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際に平賀県内ら滞在先を訪問し、蘭学への強い思いを募らせていきます。1771年に玄白の後輩で小浜藩の蘭方医であった中川淳庵がオランダ商館院から借りたオラン語医学書『ターヘル・アナトミア』をもって玄白のもとを訪れました。玄白はオランダ語の本文は読めなかったのですが、図版の精密な解剖図に驚き、藩に相談してこれを購入することにしました。このとき偶然にも前野良沢もこの医学書を長崎で入手しており、この解剖図を理解するためにこの三人らとともに.江戸小塚原(こづかっぱら)の刑場で、腑分け(人体解剖)を見ることとなりました。それが医学書に書かれた通りの人体構造であったためその正確さに驚愕した三人は翌日から前野良沢の家に集まってこの医学書の翻訳を始めました。玄白39歳の時でした。晩年には蘭学草創期の史実を残そうとして「蘭学事始」を執筆し完成させます。この本は原稿本と写本があり失われますが、幕末に偶然原稿本の写本が湯島の露店で見つかり後に福沢諭吉ら有志の奔走で明治2年に出版されます。
杉田玄白は何をした人?解体新書を完成させるまでの道のり【親子で歴史を学ぶ】 HugKum小学館
1733年小浜藩の藩医杉田玄甫の三男として江戸に生まれました。その後幼少期を小浜で過ごし。父の江戸詰めとともに玄白も江戸へ出て、家業である医学の修業を始めました。特に幕府の医者であった西玄哲にオランダ流の外科を学び大きな影響を受けました。21歳で小浜藩医となり25歳で江戸日本橋に開業します。1765年にはオランダ商館長やオランダ通詞らの一行が江戸へ参府した際に平賀源内らと滞在先を訪問し、蘭学への強い思いを募らせていきます。1771年に玄白の後輩で小浜藩の蘭方医であった中川淳庵がオランダ商館院から借りたオランダ語医学書『ターヘル・アナトミア』を持って玄白のもとを訪れました。玄白はオランダ語の本文は読めなかったのですが、図版の精密な解剖図に驚
き、藩に相談してこれを購入することにしました。このとき偶然にも前野良沢もこの医学書を長崎で入手しており、この解剖図を理解するためにこの三人らとともに.江戸小塚原(こづかっぱら)の刑場で、腑分け(人体解剖)を見ることとなりました。それが医学書に書かれた通りの人体構造であったためその正確さに驚愕した三人は翌日から前野良沢の家に集まってこの医学書の翻訳を始めました。玄白39歳の時でした。
晩年には蘭学草創期の史実を残そうとして「蘭学事始」を執筆し完成させます。この本は原稿本と写本があり失われますが、幕末に偶然原稿本の写本が湯島の露店で見つかり後に福沢諭吉ら有志の奔走で明治2年に出版されます。
「 杉田玄白の解体新書」『ちょっと学べる!天理図書館の文学ナビ』(03)DOYUSHAVIDEO
偶然入手した解剖書『ターヘル・アナトミア』、この表題はラテン語で元はドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムスによる解剖学書で1722年にドイツで出版され、1734年にオランダでオランダ語訳が出版されています。この本が杉田玄白のもとにたどり着き、読めないまでも解剖図に驚嘆した玄白らは罪人の腑分けに立ち合い事実であることを確認して翻訳を決意します。
【YouTube+読み物】No.959 国史百景(21): 前野良沢と杉田玄白 ~ 日本初の洋書翻訳 国際派日本人養成講座
オランダ語の知識もままならない中でターヘル・アナトミアの翻訳作業が始まります。それはまるで雲をつかむような作業で杉田玄白自身が後に蘭学事始の中で「艪(ろ)舵(かじ)なき船の大海に乗出せしが如く」と書いています。玄白等は意を決して大海に乗り出したのです。ターヘル・アナトミアは解剖書ですので人体図が書かれていました。この図の符号と文中の文字を手掛かりに暗号を解読するように少しずつ翻訳が進みました。翻訳を決意しそれに取り組んだ杉田玄白らとその作業を支えた人々の働きを見ますと、日本の近代化が明治以降に突然始まった訳ではなくそれ以前から日本人に事実を探求する精神があったことがわかります。
②杉田玄白の言葉にふれよう
杉田玄白「養生七不可」
杉田玄白は当時としては満83歳という長寿を全うしています。彼の長い人生経験を踏まえて養生七不可という心身の健康のための七つのすべきでないことをまとめています。ターヘル・アナトミアを翻訳するという大海を乗り切るために何よりも自分自身の心身の健康を大切にしたことがわかります。
③杉田玄白の生き方から学ぼう
玄白は「蘭学事始」の中で「一滴の油、これを広き池水のうちに点ずれば、散じて満池に及ぶとや」と語っています。既に39歳になっていた玄白は日本の医学の発展のために解体新書の出版を急ぎます。そのためには多少の不明な点が残っても仕方がないと考えます。自分たちが一滴の油となればそれが広く世の中に知れ渡り、医学や蘭学を志す人が出てくるであろうと考えました。事実、その後多くの人が蘭学を学ぶようになり江戸、大阪、長崎などに蘭学塾が出来多くの人材が学んでいきます。そして幕末には日本各地に西洋技術の造船所や製鉄所ができ明治維新を迎えることになるのです。
さらに学ぼう
玄白ゆかりの地 NPO法人杉田玄白・小浜プロジェクト
各地のゆかりの地が紹介されています。
関連書籍
『現代語訳 解体新書』講談社
『現代語訳 蘭学事始』 講談社学術文庫
『冬の鷹 』 新潮文庫 吉村昭著 冬の鷹には翻訳に格闘する杉田玄白らの姿が生き生きと描かれています。
福井 江戸 医学者 AK