平敦盛

平敦盛(たいらのあつもり) 嘉応元年(1169年)~元暦元年(1184年)
平清盛の弟・平経盛(たいらのつねもり)の末子として生まれました。1184年平家一門として17歳(一説は16歳)で一の谷の戦いに参加しました。源氏側の奇襲で平家側が総崩れとなり騎馬で海上の船へと逃れようとします。そこへ源氏の武将・熊谷直実に呼び止められ、取って返すも打ち取られました。画像は敦盛と直実を描いた錦絵(揚州周廷筆 須磨寺蔵)

①平敦盛の足跡をたどろう

【講談調】古典の名著『平家物語』名場面紹介「敦盛最期」

①平敦盛の戦いまでの時代の流れを見てみよう

平家一門の平経盛の子(兄の清盛の甥)として敦盛は官位につく間もなく17歳(16歳)で亡くなります。このためやがては高位につく人物として無官太夫と呼ばれていました。敦盛にとって一の谷の戦いは初陣でした。これより前、1180年に源頼朝が伊豆で平家打倒の挙兵をし次第に平家を追い詰めます。そして1181年の平清盛の死後、平家の権勢は衰えを見せ京に迫る源氏の木曽義仲を見て安徳天皇を擁して西国へ逃れます。西国で勢いを得て源氏に対抗しようとしたのです。やがて源頼朝の命を受けた弟の源範頼と源義経は木曽義仲を宇治川の戦い破り京に入ります。そして西国で勢力を立て直した平知盛,平重衡ら平家軍主力は1184年に摂津福原(神戸市福原)に陣を構え源氏を待ち受けます。範頼。義経軍は二手に分かれ範頼軍は東から平家軍に襲い掛かり激戦になります。義経軍は範頼軍とは別行動をとり北の山手にある一の谷の断崖を馬で駆け下り平家軍を奇襲しました。平家軍は予想もしなかった方向から攻撃を受け大混乱のうちに海に逃げ出しました。この戦いに参戦していた敦盛も馬を駆って海に入り海上の船へと向かいます。

② 平家物語で平敦盛と熊谷直実の対決を読んで見よう

海に入った敦盛へ熊谷直実は「あはれ大将軍とこそ見参らせ候(さうらへ)。まさなうも敵(かたき)にうしろを見せさせ給ふものかな。かへさせ給へ」(ああ、そこにおられるのは大将軍とお見受けいたす。卑怯にも敵に後をお見せになられるか。お戻りくだされ)と扇を挙げて叫びます。敦盛はとって返し波打ち際に上がろうとするところを直実に組み付かれ二人は浜辺に落ちます。直実は敦盛を取り押さえ首を斬ろうと甲を押し上げてみると16,7歳ほどの若者でした。直実にも同じくらいの子どもがいたのです。直実は驚いて「抑(そもそも)いかなる人にてましまし候ぞ。名のらせ給へ。たすけ参らせん。」(そもそもどのようなお方でございますか。お名のり下され。お助けします)と言いますと、敦盛は「汝(なんじ)はたそ」(お前は誰だ)と答えます。直実は「物その者で候はねども、武蔵国住人(むさしのくにのぢゆうにん)、熊谷次郎直実」(その者というほどの者ではございませんが武蔵国住人、熊谷次郎直実)と名のります。敦盛はこれに「さては、 なんぢにあうてはなのるまじいぞ。なんぢがためにはよい敵(かたき)ぞ。名のらずとも頸をとって人に問へ。見知らうずるぞ」(それでは、お前に向っては名乗るまい。お前にとってはよい敵だ。名乗らずとも首を斬って人に聞け。知っているであろう)と言って名のりません。直実はこの人一人を討ち取っても討ち取らなくてももはや戦の大勢には影響あるまいと思い、「此殿(このと)の父、うたれぬと聞いて、いか計(ばかり)かなげき給はんずらん。あはれたすけ奉らばや」(この殿の父上は、討たれたと聞いて、どれほどお嘆きになるだろう、ああお助けしなくては)と後ろを振り返ると味方の軍勢が50騎ほどが続いて来ていたのを伝え、涙を抑えて「人手(ひとで)にかけ参らせんより、同じくは直実が手にかけ参らせて、後(のち)の御孝養(おんけうやう)をこそ仕(つかまつ)り候はめ」(人の手におかけ申すより、同じ事なら直実の手におかけ申して、後で死後の供養をしてさしあげましょう)と言います。敦盛は「ただとくとく頸(くび)をとれ」と言います。直実はあまりに可哀そうで目の前も真っ暗になり前後不覚にも思われたが泣く泣く首を斬ったのでした。そして「あはれ、弓矢をとる身ほど口惜しかりけるものはなし。武芸の家に生れずは、何とてかかるうき目をばみるべき。なさけなうもうち奉るものかな 」(ああ、弓矢をとる身程悔しいものはない。武芸の家に生れなかったら、どうしてこんな悲しい目を見る事があろう。情けなくもお討ち申したものだなあ)とかきくどき、さめざめと泣きます。そしてとった首を包もうとしたところ錦の袋に入れた笛が腰に差されていました。これを見て「あないとほし、この暁城(じやう)のうちにて管絃(くわんげん)し給ひつるは、此人々にておはしけり。--- 上﨟(じやうらふ)は猶(なほ)もやさしかりけり」(ああ、可哀想に。今日の明け方に城の中で管弦をなさっていたのはこの人達であったか。--- 身分の高い人はやはり優雅なものだ)と言って大将の義経にお見せするとこれを見る者は皆、涙を流しました。この笛はかつて敦盛の祖父の忠盛が笛の名手であったことから鳥羽院から頂いた小枝(さえだ)と銘のある由緒ある笛でした。やがてこの笛は屋島に引き上げた父経盛のもとへ形見として届けられます。平家物語では直実はこのことが仏門に入る原因となり「哀れなれ」と結んでいます。敵味方を越えて敗者に対する憐憫の情は日本人にはグッとくるものがあります。若くして自らの死に対して潔く諦観した敦盛はその後の日本人の精神文化に強い影響を与えました。一人の若者の死が日本人の死生観を変えたと言っても過言ではないでしょう。

さらに学ぼう

須磨寺

 一の谷の戦いの近くに須磨寺があります。境内には平敦盛と熊谷直実の騎馬像があり二人の戦いの様子を今に伝えています。平敦盛の菩提を弔うために境内に首塚が建立されています。

敦盛塚

須磨浦公園にも敦盛塚があります。一説には敦盛の胴体を弔ったと言われています。

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