歌川広重

うたがわひろしげ 1797(寛政9)年~1853(安政5)年
江戸の常火消しの安藤家に生まれ、数え13歳で家督の火消同心職を継ぎました。常火消しとは江戸時代の幕府直轄の消防組織で火消同心とはその組織の下級役人をいいます。幼少時から絵を好み、15歳頃つてを頼って歌川豊広に入門して本格的に絵を学びます。27歳で安藤家の家督を譲り、しばらくは同心職のまま安藤家を支えますが1832年35歳でこれも譲り絵師のみの生活に入ります。歌川広重が得意としたのは「東海道五十三次」や「名所江戸百景」などの風景画です。その構図には前景と後景が大胆に配置されておりヨーロッパの印象派の画家たちに強い影響を与えました。歌川広重画像(東京国立博物館蔵)
①歌川広重はどんな人?
【刀剣ワールド浮世絵】歌川広重|YouTube動画
広重が生きた時代は江戸時代後半で歌舞伎や浄瑠璃などの町人文化が広く受け入れられました。広重13歳の時に母が亡くなり次いで父も亡くなります。長男であった広重は重右衛門として安藤家の家督を継ぎます。広重は本業の火消同心という下級役人の傍ら絵を好み歌川豊広に師事して本の挿絵や役者絵などを描いて腕を磨いていきます。絵描きを副業として生計を立てていたようです。歌川広重とは号(ペンネーム)で本名は安藤重右衛門です。師の豊広より歌川と広の字をもらい自身の重右衛門の重を重ねて歌川広重の号をもらいました。歌川豊広は1829年広重33歳の時に亡くなります。その頃広重は「東都名所十景」「近江八景」といった名所絵を発表して評判になります。1833~36年頃代表作となる「東海道五拾三次」を発表して人気を不動のものにします。写真のなかった当時、木版画で刷られる浮世絵は各地の風景を手軽に楽しめる映像娯楽でした。最晩年には「名所江戸百景」を手掛けその大胆な構図は見るものを引き込み現代の漫画やイベントのポスターにも通じるものがあります。歌川広重の浮世絵を鑑賞してみましょう。
②歌川広重の言葉に触れて生き方に学ぼう
【7分で解説】歌川広重のあまり知られていない10の事実【偉人伝】Utagawa Hiroshige フリーダの隠し部屋
広重は幼少時より絵を好みその情熱は尋常ではありませんでした。24歳で結婚しますが、27歳の時には養子の仲次郎に家督を譲りしばらくは火消同人を続け仲次郎を支えますが36歳の時にはそれも譲って絵師専業となります。まるで時間を惜しむかのように絵に邁進します。広重の探求心は浮世絵原画にとどまらず肉筆画、南画も学び更に西洋由来の遠近法を学び浮世絵の描写に取り入れました。広重の浮世絵は青色が特徴ですが実はこれはヨーロッパから輸入されたベロ藍と呼ばれる顔料でした。自分の絵画表現のために全ての努力を傾けた人と言えるでしょう。この青色はヨーロッパでジャパンブルー、ヒロシゲブルーと呼ばれ色鮮やかな色彩が評判となり印象派の画家たちに強い影響を与えました。
歌川広重は62歳で没しました。死因はコレラと言われています。友人の歌川豊国(三代目)が広重の肖像画を残しそこに広重の辞世の歌を書いています。
東路(あづまぢ)に筆をのこして旅の空 西の御国(みくに)の名所(などころ)を見む
訳:東路(=江戸、この世)に絵筆を残して旅立つことになった、西の御国(西方浄土=極楽)の名所を見る旅が始まるというのに
「東海道五拾三次」を始め多くの名所を描いてきた。これから行く極楽も是非書いてみたいが絵筆を持っていくことができない。実に残念だ。との思いでしょう。息を引き取る最後の瞬間まで目に入る全ての風景を描いてみたいという強い意思が感じられます。幼少時から絵に取り組み生涯で描いた作品は20,000点に及ぶと言われています。
さらに学ぼう
【刀剣ワールド浮世絵】浮世絵の作り方|YouTube動画
浮世絵とは一般には絵師の描いた原画を彫師(ほりし)が木版に彫り、それに顔料を染み込ませて紙に刷る摺師(すりし)が分業して出来上がります。この一連の工程を企画し販売するまでを版元(はんもと)と呼ばれる現在の出版社に相当する商店が担いました。
歌川広重墓(東岳寺) 温泉と歴史探訪
墓所。東京都足立区にある東岳寺に葬られています。ここには広重を研究し世界に紹介した米国人ホッパーの墓もあります。
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