中臣鎌足

中臣鎌足(なかとみのかまたり) 614(推古天皇22)年-669(天智天皇8)年

 聖徳太子亡き後、蘇我馬子の権勢はますます大きくなりさらにその権勢は子の蝦夷、孫の入鹿へと引き継がれ蘇我一族の専横が一層激しくなりました。このような中、豪族の子である中臣鎌足は蘇我氏打倒をこころざし、思いを同じくする中大兄皇子(父・欽明天皇、母・皇極天皇の子)とともに宮中で蘇我入鹿を謀殺、翌日には父・蝦夷も自害し蘇我一族の権勢は崩壊します。中大兄皇子は後に天智天皇となり中臣鎌足を内臣に談山神社任じ藤原姓を賜り藤原氏の祖となります。こうして日本を、天皇を中心とする律令国家へと導きます。中臣鎌足像談山神社蔵。

①中臣鎌足ってどんな人物?

 談山の二人 中大兄皇子・中臣鎌足  いざいざ奈良JR

 乙巳の変(いっしのへん)を経て大化の改新へ

中臣鎌足は幼児より学問に秀で遣唐使であった南淵請安や僧旻(みん)に学びその才能が広く認められていました。そうした中、権勢を振るう蘇我入鹿は有力な皇位継承者で聖徳太子のお子であった山背大兄王(やましろのおおえのおう)の一族を滅ぼします。これを見て中臣鎌足は蘇我氏打倒を決意します。鎌足は思いを同じくする中大兄皇子(父・欽明天皇、母・皇極天皇の子)と語らい、機を見て蘇我蝦夷を一気に打ち滅ぼす決意を固めます。時は645年6月皇極天皇の皇居であった飛鳥板蓋宮(いたぶきのみや)の大殿で二人は蘇我入鹿を襲い首をはねます。翌日父蝦夷も自害に追い込まれ蘇我一族の権勢は崩れ去ります。これを乙巳の変といいます。

【飛鳥時代】19 大化改新とは?中大兄皇子と中臣鎌足の改革【日本史】 YouTube高校

乙巳の変の後、皇極天皇は退位し中大兄皇子の叔父である軽皇子が即位し孝徳天皇、中大兄皇子が皇太子、そして中臣鎌足は内臣という中大兄皇子の側近として国家体制を整える改革を進めていきます。まず飛鳥宮から難波宮へ遷都し、そこで改新の詔が出されます。それはこれまでの国家体制を根本から変えるものでした。

1.土地や人民の私有を禁じすべてを公のものとした「公地公民制」                       2.初めて首都を定め、全国を約60の国に区割りをし、国をさらに郡に分けて組織化しました。国には中央から朝廷の役人を派遣して統治しました。「国郡制」                                     3.その上で戸籍と土地区画を定め公地を公民に貸し与え一定割合を租税として国に納め残りを公民自らの収入とする「班田収授法」                                                 4.公民の税や労役を負担させる制度改革の「租庸調」などがその柱でした。

中臣鎌足の生き方に学ぼう

【飛鳥時代】18 大化の改新の始まり乙巳の変 中大兄皇子と中臣鎌足【日本史】

 慎重に計画し大胆に実行

中臣鎌足は蘇我氏打倒という秘めた思いを志を同じくするとみた中大兄皇子と相談しようと思っていました。接触の機会は蹴鞠の会(毬を足で蹴って廻す遊び)で中大兄皇子の沓(くつ)が飛んでしまいそれを鎌足が拾ったことだったと伝えられています。その後二人は多武峰(とうのみね)で密談し決行の約束をします。この場所は後に談山(かたらいやま)と呼ばれ談山神社となりました。鎌足は蘇我氏打倒という目標を秘めて信頼できる同志の中大兄皇子と慎重に計画を練りさらに仲間を募ります、天皇の御前で蘇我入鹿を討ち取るという大胆な行動で目的を達します。この慎重さと大胆さを併せ持ったところが中臣鎌足の真骨頂でしょう。

さらに学ぼう

談山神社と阿武山古墳

没後、お墓は阿武(あい)山に葬られましたが後に遺骨の一部が多武峰山頂に改葬し談山神社が建てられました。1934年に偶然発見された阿武山古墳がその墓所と有力視されています。

大和多武峰山談山神社

阿武山古墳  高槻市

No.1291 大化の改新 ~ 公地公民と律令で幸福な国造りが進んだ 国際派日本人養成講座(動画+読み物)

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奈良,飛鳥,政治家,A.K

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