吉田茂
吉田茂(よしだ しげる)1878(明治11)年~1967(昭和42)年
高知の自由民権家・竹内鋼の五男として東京都で生まれ、幼少時に貿易商・吉田健三の養子となった。外交官・政治家の牧野伸顕(のぶあき。大久保利通の次男)の娘婿。また元首相・麻生太郎の祖父にあたる。東京帝国大学法科大学を卒業後、外務省に入省し、外務次官、駐伊大使、駐米大使などを歴任。戦時中は和平工作を進め、1945(昭和20)年憲兵隊に逮捕・拘置された。
敗戦直後、東久邇内閣・幣原内閣で外務大臣を務め、1946(昭和21)年の戦後第1回総選挙後、総理大臣に就任。公職追放となった鳩山一郎に代わって日本自由党総裁となる。以後1954(昭和29)年までの間、計5度にわたって総理大臣に就任した。1951(昭和26)年、サンフランシスコ講和条約、日米安全保障条約を締結してGHQによる占領統治を終結させ、独立を果たした。大磯の自邸で死去。享年90。
①吉田茂の足跡をたどろう
『吉田茂の生涯と人物像とは?作品・死因・名言・子孫も』 History Style
吉田茂の生涯、人柄、名言、彼のすごさがわかるエピソードなどを解説。
『【1分半でわかる】吉田茂のエピソード』 総理雑学 平成ヒビグラシ(1分30秒)
強烈な個性とユーモアの人、吉田茂の面白いエピソードを簡潔に紹介。
②吉田茂の言葉にふれよう
吉田茂著『回想十年』 中公文庫
吉田茂は皇室への強い尊崇の念を持っていました。自身の回想録の中で、「皇室と国民は一体不可分」であり、「古くより、君臣一家のごとく相依(あいよ)り相扶(あいたす)けて、国をなし来たったというのが、日本の伝統である」と述べています。
『日本民族の国民的観念として、皇室と国民は一体不可分である、と私は信ずる。皇室の始祖はすなわち民族の先祖であり、皇室はわが民族の宗家というべきである。換言すれば、わが皇室を中心として、これを取り巻く家族の集団が、大和民族であり、日本国民であり、これが日本国家を構成しているのである。古くより、君臣一家のごとく相依り相扶けて、国をなし来たったというのが、日本の伝統である。この伝統、歴史によって、祖先崇拝の大義が生まれ、培われ、わが民族固有の特性にまで発展し、わが国体の拠って以て立つ大本をなすに至ったのである。』
■『吉田茂 名言集』 万歳!保守政治(6分)
「今に立ち直る。必ず日本は立ち直る」 政治家としてのゆるぎない信念、国を思う強い気持ち、ユーモアあふれる言葉など、吉田茂の懐の深い人間性が感じられます。
『戦後を創った男・吉田茂が歴史に刻んだ名言・語録』 The Word
強い政治力で敗戦後の日本を再び独立へ導いた吉田茂の言葉が胸に響きます。
③吉田茂の生き方から学ぼう
『あの人に会いたい 吉田茂』 NHKアーカイブス(3分)
激しい気性と頑固一徹さからワンマン宰相と呼ばれた吉田茂。しかし純粋に日本を思う心は多くの国民の尊敬を集めました。国会答弁やインタビューなど、実際の映像を見てみましょう。
『「日本は必ず立ち直る」戦後の焼け野原から復興へと導いた吉田茂の“逆境力” 諦めずに信念を持ち続けた吉田のような「真のリーダー」がいま求められている』 JBpress (ジェイビープレス)
自分を裏切った者に吉田がとった行動とは…。国民のために粉骨砕身した吉田茂の「心が折れない」生き方を学んでいきましょう。
さらに学ぼう
『吉田茂と旧吉田茂邸について』 大磯町ホームページ
戦時中、吉田は戦争の早期終結を目指して和平工作活動をすすめていたため軍部に逮捕されました。吉田茂の生涯の他、海外の賓客も数多く訪れた大磯の邸宅について紹介しています。
『吉田茂元総理の「国葬」 中継特番の全編記録見つかる』 NHK
吉田茂の国葬には皇太子ご夫妻も献花されました。日本にとって、国民にとっていかに大きな存在であったかがわかります。
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