林子平

林子平 元文3年(1738年)~寛政5年(1793年)
江戸で生まれ3歳の時に兄の友諒とともに医師である叔父の林従吾に養われることになりました。1757年に兄の友諒とともに仙台藩へ移ります。そこで「富国建議」と称する藩政改革を説いた提案書を提出するも受け入れられませんでした。子平は蝦夷から長崎まで全国を巡って見分を広めるとともに有識者と交流します。こうして得た情報や知識をもとに「三国通覧図説」と「開国兵談」を出版してロシアの脅威を説き国の危機をとなえました。しかし、これらの本は幕府に対する挑戦であるとして発禁処分となり子平自身も仙台の兄宅で蟄居処分を命じられ1793年に不遇のうちに生涯を閉じました。しかしその後、子平の説いた脅威が現実のものとなり見直されることになります。高山彦九郎・蒲生君平と共に、「寛政の三奇人」の一人とされています。奇人とは一般の人とは違う風変わりな人という意味ですが、林子平の場合は時代に先んじた考えを持ちその考えが一般には受け入れらなかった人を言います。肖像は仙台市青葉区勾当台公園の林子平像。

①林子平の足跡をたどろう

林子平は何をした人? 「三国通覧図説」と「海国兵談」の内容や功績を解説【親子で歴史を学ぶ】  HugKum

林子平は幕臣の岡村良通の次男として江戸で生まれるも3歳の時に父が浪人となり兄の友諒とともに医師である叔父の林従吾に養われることになりました。1757年に兄の友諒が仙台藩士となったことから子平も仙台藩士となります。子平は妻子を持たず兄のもとで部屋住みとして暮らします。1765年に財政難の仙台藩に「富国建議」と称する藩政改革を説いた提案書を提出するも受け入れられませんでした。子平は藩の仕事を辞め、兄の世話になりながら、蝦夷から長崎まで全国を巡って日本の実態を見るとともに有識者と交流します。特に長崎と江戸では蘭学者として知られる大槻玄沢、宇田川玄随、桂川甫周、工藤平助らと交わります。こうして得た情報や知識をもとに「三国通覧図説」と「開国兵談」を出版してロシアの脅威を説き国の危機をとなえました。しかし、これらの本が外交と軍事を統括する幕府に対する挑戦であるとして発禁処分となり子平自身も仙台の兄宅で蟄居処分を命じられ1793年に不遇のうちに生涯を閉じました。しかしその言説は子平の亡くなる前後からロシアをはじめとする外国船が日本の周辺に現れ外国の脅威が現実のものとなります。そして動乱の幕末を迎えます。この時になって初めて子平の説いた脅威が現実のものとして見直されることになります。

②林子平の言葉に触れよう

親もなく、妻なく、子なく、版木なし、金もなければ死にたくもなし」  独立メディア塾編集部

およそ日本橋よりして欧羅巴に至る、その間一水路のみ」
「開国兵談」の中にある言葉です江戸の日本橋とヨーロッパが一つの水路でつながっていると警鐘を鳴らしています。船と航海術があれば遠く離れた日本とヨーロッパを自由に往来できる。そして日本に船は?航海術は?日本には何が必用かをうったえました。
「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」
「開国兵談」は9年の歳月をかけた海防の重要性を説いた軍事書でした。しかも16巻3冊の大著であったため出版を引き受けってくれる版元がなく自身で版木(印刷に使用する原版)を自ら製作して自費出版しました。しかしそのことで幕府に罪を問われ版木も没収され仙台の兄のもとでの蟄居処分(自宅監禁)となってしまいました。この言葉はそのような不遇な状況下で発したものです。五七五七七ですので和歌の形式になっていますが狂歌というべきでしょう。妻子もおらず版木も没収されての蟄居処分ですが子平にはこれまで得た知識と自身の身体はありました。「死にたくも無し」という言葉には「死んでたまるか」という反骨精神が感じられます。事実、子平は「開国兵談」を筆写して書写本を作成します。そうすれば必ず読んでくれる人がいるという自信があったのでしょう。子平の死後ほどなくして日本近海にはロシア船をはじめとして外国船が現れ子平の先見性が評価されました。

③林子平の生き方から学ぼう

みやぎの先人集「未来への架け橋」第18話 林 子平 -志あれば必ず道あり-  PrefMiyagi宮城県インターネット広報資料室

子平は仙台藩に移った時に藩のために「富国建議」を書いて藩のために尽くそうとしますが一介の無役者の意見は取り上げられませんでした。子平は更に見聞を広めようとして全国を回ります。そしてロシアが蝦夷地を狙っているという噂を聞くことになります。すぐさまその事実を確かめるべく、長崎出島に行きオランダ商館長との面談に成功します。その噂は本当でした。事実、当時ロシアは南下政策という不凍港を求める領土拡張政策を推進していました。子平はこれを仙台藩のみの問題ではなく、日本全体の問題であると認識します。子平はすぐさま「三国通覧図説」を書き「開国兵談」に取り掛かります。苦労の末、出版にこぎつけますが軍事と外交の大権を握る幕府はこれを弾圧し不遇のうちに生涯を閉じます。子平は藩政の視点から日本全国へ視野を広げ、更に世界の中の日本という当時の人にあっては抜きんでた世界観で考えることのできる人でした。奇人と言われるゆえんでしょう。

さらに学ぼう

林子平ゆかりの地について 説明版  仙台市

仙台市若林区の住居跡に説明版があります。

林子平墓所 龍雲院  仙台市青葉区

林子平の墓は宮城県仙台市青葉区の龍雲院にあります。

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