喜多川歌麿

喜多川歌麿(1753?(宝暦3年)~1806(文化3年)
喜多川歌麿は浮世絵の美人画を代表する絵師です。天明・寛政期(1781-1801)に活躍し華やかで贅沢な錦絵や美人画で注目を集めました。特に美人画ではそれまでの全身像を描く構図から顔をクローズアップさせる美人大首絵の構図を取り入れ人物の表情から内面までも描こうとしました。喜多川歌麿の肖像画(鳥文斎栄之筆・大英博物館所蔵)
①喜多川歌麿はどんな人?
美人画で右に出る者なし! 浮世絵師・喜多川歌麿とは? 生涯や代表作を3分で解説! 和楽web
生年については定かではありませんが数え54歳で亡くなったとされ、逆算で宝暦3年の生まれとされています。江戸の生まれとされていますが定かでなありません。
歌麿は少年期より狩野派の鳥山石燕(とりやませきえん)のもとで絵の修業をし、1781年(天明元年)に版元の蔦屋重三郎(つたやじゅうさぶろう)に見いだされて黄表紙の挿絵を描き人気を博しました。黄表紙とは江戸後期に流行したしゃれ、滑稽、風刺をおりまぜた大人向けの絵入りの小説で表紙が黄色であったことからこの名で呼ばれました。蔦屋重三郎は歌麿の実力と人気狂言師の大田南畝(おおたなんぽ)を組み合わせ、狂言絵本というあらたなジャンルをプロデュースして大人気となりました。狂言とは古今和歌集などの名歌をもじってしゃれや風刺をきかせた短歌形式のものです。これに歌麿の絵を入れることで大人気になったのでした。黄表紙や狂歌絵本は現代の漫画に通じる絵と文で伝える出版物でした。狂歌絵本にはいくつかのジャンルがあります。例えば潮干狩りと貝を描いたガイドブックのようなもの(潮干のつと)。虫を描いた昆虫図鑑のようなもの(画本虫選)。さらには二種類の鳥をみて掛け合いで狂歌を詠んだもの(百千鳥狂歌合)。写真のなかった時代に驚くような観察眼で生物を描いておりその描写力に圧倒されます。江戸の庶民に大人気になりました。
『潮干のつと』(しほひのつと)千葉市美術館蔵
『画本虫ゑらみ』(えほんむしえらみ)国立国会図書館デジタルコレクション
みんなの知識ちょっと便利帳= 喜多川歌麿 =『百千鳥狂歌合(ももちどりきょうかあわせ)』
② 喜多川歌麿の言葉に触れて生き方に学ぼう
【浮世絵】美人画の第一人者 喜多川歌麿の代表作「当時三美人」 浮世絵ちゃんえる
喜多川歌麿が活躍した江戸後半期には先ず田沼意次が老中として農業から商業重視の政策に転換して政治を主導します。これにより歌麿の活躍の舞台である出版の世界も活況を呈することになりました。ところがこの後1772年江戸の大火災(明和の大火)、続いて1783年の浅間山噴火(浅間山天明の大噴火)が起こり多くの犠牲者がでました。とりわけ浅間山の噴火では関東一円に火山灰が降り積もり農業が大打撃を受け天明の大飢饉と呼ばれるほどの災害を引き起こしました。幕府政治も松平定信が主導する寛政の改革と呼ばれる政策が実施されます。この政策は疲弊した農村の再興を図るものでしたが、同時に消費にも制約をかけ質素倹約が奨励されました。その一環として浮世絵も規制されました。とりわけ美人画では人気の歌麿の「当時三美人」が規制されました。三美人とは吉原芸者の富本豊ひな、水茶屋の看板娘の難波屋きた、高島ひさの三人でした。ところが幕府はこの絵の右上の名前を削ることを命じます。特定の女性を描くことは風紀を乱すと判じたのでした。
歌麿判じ絵
ところが歌麿は名前の代わりに左上に挿絵を描き「この女性は誰でしょう」とでも問いかけるような浮世絵を作成しました。挿絵は二把の野菜、弓矢、沖に浮かぶ舟、田んぼで何の脈絡もないものです。しかしこれは判じ絵と呼ばれるものでその答えは「菜二把矢沖田=難波屋おきた」でした。名前を入れるなという幕府の命令に「名前は入れてはいません」という歌麿の反骨精神でした。
しかしその判じ絵も禁止されさらには美人画そのものも禁止されます。
おいしい美術92🍷喜多川歌麿《教訓親の目鑑 俗二云ばくれん》1802年頃 美術史チャンネル
しかし歌麿は美人画を諦めません、なんと「教訓親の目鑑(きょうくんおやのめかがみ)」を出版します。表題では親に「このような娘に育ててはいけない」と教訓にしているのですが描いている絵は美人画そのものです。幕府が繰り出す規制を何とかすり抜け、自分の作風を守ろうとしているかのようです。しかしついに幕府に捕縛され手鎖(てじょう)50日の処分を受けてしましました。文字通り筆を持つことを禁止されたのです。歌麿はほどなく病気となり亡くなりました。
さらに学ぼう
【刀剣ワールド浮世絵】喜多川歌麿|YouTube 動画 刀剣ワールド/浮世絵
さらに喜多川歌麿の作品を見てみよう。
文集文庫「喜多川歌麿女絵草紙」藤沢周平
求めやすい本です。
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