長久保赤水

(ながくぼ せきすい)
1717(享保2)年~1801(享和元)年。江戸時代の地理学者、天文学者、儒学者。日本地図の先駆者。茨城県の農民出身(遠祖は戦国大名の大友氏)。幼時に両親を失って親族に育てられ、14才の頃から近郷の医師の塾で漢学を学んだ。後、水戸藩の儒学者に師事して朱子学、天文地理学などを学ぶ傍ら、貧困者や病人の救済に努め、人々の崇敬を集めた。30才半ばで正確な日本地図を作ろうと決意し、情報収集・各地の旅を続けて52才で初めての地図を完成した。この功績により水戸藩の郷士(武士待遇)の格を与えられ、61才で水戸藩主の侍講(教師)に抜擢されたが、農民から侍講となるのは前例のないことであった。日本地図作成の一方で、藩へ意見書を出して農村で横行していた間引きの悪習を減らし、また役人が公然と賄賂を得ていた慣習をなくすよう命を賭して藩主に提言するなど、民政、農政の改善にも尽力した。63才の時に『改正日本輿地路程全図』(赤水図)は完成し、翌年出版された。画期的な正確さで実用性が高く、明治初期まで約百年間にわたってロングセラーとなり、人々に広く活用された(伊能忠敬の『大日本沿海輿地全図』の完成はこの42年後であるが、幕府によって厳重に管理され、一般には流布しなかった)。1801年、85才で死去した。
①長久保赤水の足跡をたどろう
『長久保赤水 知名度じわり 江戸時代茨城の日本地図先駆者』 KYODO NEWS(約4分)
膨大な情報を収集し、これを整理、編集して製作した長久保赤水の地図は正確で実用性が高く、庶民にまで広く利用されました。
『ゆっくり大江戸94 江戸時代の日本地図~明治まで使われた実用日本図の父 長久保赤水~伊能図の以前の日本図もこれだけ凄かった!』 terasenゆっくり大江戸(約19分)
長久保赤水の地図が出版される以前に人々が使っていた地図と赤水の地図を見比べると、赤水の地図がどれほど画期的であったかがわかります。当時の地図事情をわかりやすく解説しています。
『初めて経緯線の入った日本地図を発行― 近世史に不滅の足跡を残した地理学の先駆者』 高萩市教育委員会
約100年間、長久保赤水の作成した日本地図は広く利用され、吉田松陰ら幕末の志士たちもこの地図を使っていました。
②長久保赤水の言葉にふれよう
『歴史に貢献した地理学者・長久保赤水の生涯と功績を讃えて』 長久保赤水顕彰会
藩主の教育係となった長久保赤水は死罪を覚悟して『農民疾苦』を藩主に上呈し、農民の困窮を訴えました。その結果、農民を苦しめていた悪制は廃止されます。
『歴史に貢献した地理学者・長久保赤水の生涯と功績を讃えて』 長久保赤水顕彰会
晩年『大日本史地理志』の執筆に没頭した長久保赤水は、「主君の仰せを守り、死ぬ日の朝まで筆をとりたい」と手紙に書きました。
③長久保赤水の生き方から学ぼう
『その先を往け!日本地図の先駆者 長久保赤水』 製作・高萩市(約53分)
狂言師・和泉元彌主演で長久保赤水の生涯を描いたドラマです。正確な地図がなかった当時、旅は多くの困難や危険を伴うものでした。赤水は人々の難儀を救うため、正確な全国地図を作ろうと決意します。(開始後18分に決意の場面)
『江戸時代の地政学者 長久保赤水』 長久保赤水先生銅像建立実行委員会
江戸時代、日本各地の知識人が凄まじい勢いで交流し、知識を高め合いました。長久保赤水もこの交遊によって知識を高め、日本人の世界認識を変えるような業績を達成します。
さらに学ぼう
『江戸時代の地政学者 長久保赤水』 長久保赤水先生銅像建立実行委員会
竹島問題に関連して長久保赤水が注目されています。赤水の日本地図には竹島が的確に記載されており、日本が当時すでに竹島を認知していたことが確認できます。
『赤水図/常設展・高萩市歴史民俗資料館』 青木誠(約5分)
長久保赤水の日本地図を拡大して見ると、古代の景行天皇の事跡など様々な情報が書き込まれていました。
『江戸時代の地政学者 長久保赤水』 長久保赤水先生銅像建立実行委員会
『長崎行役日記』は長崎を訪れた長久保赤水が著した旅日記。そこには清国人や清国の船の絵も描かれています.
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