孫文

孫文(そんぶん) 1866年~1925年 中華民国の政治家・革命家で清国打倒を目指して活動した。1911年の辛亥革命で清王朝が倒れると初代の中華民国臨時大統領となりました。中国語圏では孫中山(そんちゅうざん)と呼ばれています。これは孫文が日本への亡命時代に中山樵(なかやまきこり)と呼んでいたころに由来します。ここでは孫文と呼ぶことにします。生涯の大半を清朝打倒の革命にささげた孫文は中国革命の父として台湾および中華人民共和国の双方で国父として尊敬を集めています。

①孫文の足跡をたどろう

「孫文と宮崎滔天」  jiotv  

孫文は12歳の時に架橋であった兄を頼ってハワイへ渡り西洋の教育を受けます。その後26歳で香港の大学で中国人初となる医学博士となるなど高い教養を身に着けました。こうした教養と体験から旧弊な清王朝を倒そうとの考えに至りました。当時の清王朝は封建体制のもと西欧列強による圧迫を受けていました。1894年にハワイで清朝打倒を目指す革命団体である興中会を組織し翌年の日清戦争終結後に広東省恵州で武装蜂起するも失敗します。孫文はやむなく日本へ亡命して再起を図ります。日本には清国の現状に同情して孫文らの活動を支援しようとする人々がいたのです。宮崎滔天や頭山満といった社会運動家や犬養毅などの政治家まで幅広い交友がありました。孫文には周りの人を引き付ける人間的な魅力がありました。

孫文と日本の志士たち  国際派日本人養成講座 43号(動画+読み物)

中華人民共和国、台湾の「国父」孫文の革命運動を多くの日本人志士が助けました。

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その後、国際的なネットワークを作るためと自らの身を守るために日本、アメリカ、イギリスで亡命生活を送ります。1999年義和団の乱が発生しこれに乗じて翌年再び恵州で挙兵しますがこれも失敗し再び日本へ移ります。その後も各地で反乱がおこりますが失敗します。しかし1911年に孫文の影響を受けた革命軍が清朝打倒に成功し南京に中華民国が成立し、孫文が臨時大統領に選出されます。これを辛亥革命といいます。しかしこの時にも清朝の勢力はなお強力で、革命軍と清国の軍人で政治家であった袁世凱(えんせいがい)との間で妥協が成立します。それは皇帝の宣統帝が退位し袁世凱が孫文に代わって中華民国の第二代の臨時大総統になるというものでした。その後袁世凱は共和制を廃止、帝政を復活させ自らが中華帝国皇帝となるなど独裁色を強めていきます。孫文らは第二革命が必要との考えから打倒袁世凱を掲げて蜂起しますが失敗し、1913年~1916年には再び日本へ亡命します。孫文にとって日本は苦しい時に自分を庇護してくれる第二の母国のような存在でした。日本で中華革命党を組織して運動を継続します。この前後、中国を取り巻く国際環境は大きく動きました。1904~1905には日露戦争が勃発し日本が勝利します。さらに1914~1918には第一次世界大戦が起こりこの大戦中にロシア革命が起こりロシアに代わり共産主義ソ連邦が成立します。中国においても共産主義の運動が力を持つようになりました。1919年のパリ講和会議で敗戦国ドイツが有していた山東省の権益が日本に譲渡されたことから中国各地で抗日運動が盛り上がります。孫文は1919年に中華革命党を中国国民党に発展させて中国全土の統一を指向します。1916年袁世凱が死去した後の中国は孫文率いる中国国民党、力をつけつつあった中国共産党、それから各地に勢力を持った軍閥が支配するモザイクのような様相を呈していました。孫文は革命理論として三民主義を唱えました。三民とは民族(北方の異民族であった清朝を倒して中華民族による統一)、民権(主権在民による民主主義)、民生(経済的な不平等の解消)の三つを根本理論として中国国民党の基本綱領としました。しかし中国の現実は孫文の理想実現には程遠いものでした。力(軍事力)を必用としていた孫文はソ連邦の援助を得ることで中国統一を成し遂げようとし、中国共産党と結びます。(国共合作)これはソ連の利益にもなるものでした。しかし孫文の生涯をかけた努力にもかかわらず1925年「現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず」の言葉を残して亡くなりました。

②孫文の言葉にふれよう

大アジア主義 ——孫文氏演説   note みつうろこ

日本と関係の深かった孫文は1924年に兵庫県立神戸高等女学校講堂で講演を行いました。講演ではアジアの文化の優越性が次第に西欧の発展に押され衰退していったが、日本が立ち上がり不平等条約を撤廃させアジア復興の日となった。更に「日本がロシアとの戦争に勝ったことが全アジアに影響を及ぼし、希望を抱かせることとなった。欧州は武力で圧迫する覇道であり、我々東洋は仁義道徳を行う王道である。」と述べアジア東洋の道徳的優位性を語りました。そして「日本民族は既に一面、欧米の文化の覇道を取入れると共に、他面、亜細亜の王道文化の本質を有している。今後日本が世界の文化に対して、西洋覇道の犬となるか、或は東洋王道の干城となるかは、日本国民の慎重に考慮すべきことである。」と結び、日本に寄せる期待とともに強い牽制を行っています。孫文にとって、日本にアジアとりわけ中国を離れて西欧に傾かないでほしいとの願いであろうか。

③孫文の生き方から学ぼう

孫文の遺書から生き方を学ぼう

1925年死期を覚った孫文は遺言を残します。そこでは「自分は国民革命におよそ40年をささげた。その達成のためには民衆を喚起するとともに世界の平等を願う人々と協力することが必用である。」と説き「現在、革命尚ほ未だ成功するに至らず」と語り、残った同志へ引き続き努力することを記しました。この言葉は同志のみならず中国民衆に向かっての呼びかけでしょう。そして孫文の願った形での「革命未だ成功するに至らず」の言葉は今なお中国の人々の胸に迫り強い影響を与えているのではないでしょうか。

さらに学ぼう

孫文記念館(移情閣)

1913年日本に亡命した孫文は神戸の地で歓迎の昼食会が開かれました。そこは孫文記念館となっています。

宮崎兄弟資料館

終始孫文を助けた宮崎滔天は熊本県荒尾市の出身で、宮崎兄弟資料館でその足跡を診ることができます。そこには孫文に関する豊富な資料・動画をみることができます。

中国,思想家,明治,大正,AK

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