新井白石
概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれ生き方に学ぼう さらに学ぼう

新井白石(あらいはくせき) 1657(明暦3年)~1725(享保10年)
6代将軍徳川家宣(とくがわいえのぶ)に仕えた江戸中期の朱子学者。将軍の側用人間部詮房(まなべあきふさ)とともに実質的に幕府政治を主導して「正徳の治(しょうとくのち)」とよばれる政策を行いました。肖像は『先哲像伝 近世畸人傳 百家琦行傳』より。
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軍師や歴史上の実力者 新井白石-歴史上の実力者/ホームメイト 刀剣ワールド
新井白石は幼少の頃から非凡な才能を示し3歳で父の読む儒学の書物をそっくり書き写したとの逸話が残っています。また8歳で父の命により一日㈣千文字を書いたと言われるほどの努力家でした。父の新井正済(あらいまさなり)は上総久留里藩の土屋利直に仕えていましたが、利直の死後藩主を継いだ土屋直樹は振る舞いがよくなかったため出仕をボイコットし、土屋家を追われ新井家は困窮します。このような中、白石は独学で儒学等を学び続けました。1683年には大老の「堀田正俊(ほったまさとし)」に仕えましたがその正俊が若年寄の稲葉生休(いなばまさやす)に刺殺される事件が起き堀田家は国替えを命じられました。これにより藩財政が悪化すると白石は堀田家を退いて浪人し、独学で儒学を学び続けました。1686年に朱子学者木下順庵に入門し朱子学を学びます。そして1693年に順庵の推挙で甲府藩の徳川綱豊に仕えることになりました。ところが5代将軍の徳川綱吉が亡くなったために1710年綱豊は家宣とあらためて第6代将軍となりました。徳川家宣は将軍に就任すると間部詮房(まなべあきふさ)を側用人に任命し新井白石を将軍に学問を講義する侍講(じこう)として江戸城に呼び寄せます。こうして白石は将軍を補佐するブレーンとして頭角を現します。
【江戸時代】181 新井白石と正徳の治【日本史】 YouTube高校
白石は将軍綱吉が始めた「種類憐みの令」をすぐさま撤廃します。動物のみならず農作物の害虫でさえも駆除を禁じられ多くの人が処罰を受けていました。
・貨幣改鋳
将軍綱吉時代に荻原重秀(おぎはらしげひで)が金貨の金含有量を落として貨幣を多量に発行するインフレ政策により景気を良くしようとしましたが、白石は金貨の品位を旧に復しました。結果としてインフレは収まりましたが急激な変更によりデフレとなり米価が下落して米価に換算して報酬を得ていた武士は生活に困窮することとなりました。
・閑院宮家の創設
これまでに天皇家を支え、天皇のお世継ぎがない場合には伏見宮(ふしみのみや)、桂宮(かつらのみや)、有栖川宮(ありすがわのみや)の3宮家から天皇を出すこととされていました。しかし、時代を経るにしたがって3宮家とも天皇家との血筋がはなれてしまうようになりました。そこで新井白石は1710年に当時天皇であった114代中御門(なかみかど)天皇の弟を閑院宮(かんいんのみや)として新たに創設させました。中御門天皇の直系は118代の後桃園天皇で断絶し119代天皇には閑院宮家から光格天皇が即位し、現代にいたるまで閑院宮の血筋で皇統が続いています。
・海舶互市新令(かいはくごししんれい)
長崎におけるオランダ、清との貿易で日本の金銀が多量に海外流失しているとして白石はオランダ、清との貿易を制限しました。
その他にも白石は朝鮮通信使の待遇を簡素化し質素にしました。これにより幕府の出費を減らそうとしました。
将軍家宣が在位3年で没すると1713年その子家継がわずか5歳で第7代将軍になり、間部詮房と新井白石は引き続き政務を執り行いますが家継が将軍職3年で夭折し、1716年に紀州藩の徳川吉宗が将軍になると白石は失脚し政治活動から退きました。つまり正徳の治はわずか6年間でした。引退した白石は冷遇され、正徳の治の政策も徳川吉宗によって覆されました。しかし白石はその境遇の中で執筆活動に励み、自伝の「折たく柴の記」、アイヌのことを書いた「蝦夷志」、世界地理について書いた采覧異言(さいらんいげん)、宣教師シドッティとの対話に基づく西洋紀聞など多くの書物をも残しました。どのような境遇にあっても旺盛な知識欲でこの世界を理解しようと努めました。
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新井白石「西洋紀聞」を読む 知の快楽 哲学の森に遊ぶ
新井白石の自伝である「折たく柴の記」を読んでみましょう。先ず序です。
むかし人は、いふべき事あればうちいひて、その余はみだりにものいはず、いふべき事をも、いかにもことば多からで、其義を尽したりけり。我父母にてありし人々もかくぞおはしける。 (訳)昔の人は、話すべきことがあればはっきり話して、その後は、むやみに話さなかった。話すべきことでも、決して言葉数を多くしたりせずに、言いたいことを伝えたものだ。私の父母であった人々もそのようであった。
白石の父は仕えていた久留里藩主土屋利直の死後に藩主を継いだ土屋直樹の振る舞いがよくなかったため、出仕をボイコットし土屋家を追われました。上におべっかを使い自分の地位を保つことを極度に嫌い、自ら浪人の道を選びました。白石もまた失脚後にこれまで政治の面で経験したことに自分の考えを述べて正確に残そうとしました。例えば「西洋紀聞」を残しています。これはイタリアの宣教師シドッティが屋久島に上陸しそこで捕えられ江戸に送られてきます。シドッティは天文学や地理にも通じている知識人でした。そのシドッティを白石が直接尋問しました。白石はシドッティが身を顧みずに日本までやって来た行為については高く評価しています。そしてシドッティを通じて世界情勢を理解
ししようとします。その理解は地理や国際情勢に留まらず西洋人の道徳や考え方までも理解しようとしました。しかし、儒学者である白石はシドッティのキリスト神学については全く評価しませんでした。シドッティが全てを創造した天主だけを尊ぶべきだとの考えに対して、白石は「自分には父がおり、使えるべき君主がいる。これを愛せず、敬しないのは不孝、不忠ではないか」と一顧だにしませんでした。さらにキリスト教について「天地万物はデウス(ゴット)がこれを生じたとするのならば、デウスは何者によって造られたのか、天地が造られる前に自ら現れたのであろう。であれば天地も又自ら生まれたのではないか」と論理的に論駁しています。このように西洋紀聞は白石が西洋の理解をキリスト教にまで遡って理解しようとしたとも解釈できます。西洋紀聞は白石が晩年になるまで書き綴ったようですが公開されたのは100年後に外国船が日本周辺に頻繁に来航するようになった時でした。西洋事情を基本から理解するための格好のテキストとなり、多くの写本が作られました。白石の西洋理解を通じて日本人の西洋理解が進んだのでした。
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新井白石の墓 真宗大谷派高徳院
新井白石のお墓は東京都中野区・高徳寺にあります。
以下の本が出版されています。
『折りたく柴の記』 岩波文庫
『西洋紀聞 東洋文庫』 岩波文庫
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