藤原頼通
概要 ①足跡を辿ろう ②言葉にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう

藤原頼通(ふじはらよりみち) 992(正暦3)年~1074(延久6)年
平安時代中期から後期にかけての貴族。藤原道長の長男。道長から後一条天皇の摂政を譲られた。道長の死後は後朱雀天皇・後冷泉天皇の世において関白を50年にわたって務め、道長と共に藤原氏の全盛時代を築いた。京都・宇治の平等院鳳凰堂は頼通の造営。しかし天皇の后にした娘が男子に恵まれず、刀伊の入寇、平忠常の乱、前九年の役など戦乱が相次ぎ、さらに頼通とは疎遠な後三条天皇が即位したことで摂関家は衰えた。藤原頼通肖像は江戸初期制作のもの、浄土院蔵。
①藤原頼通の足跡をたどろう →TOP
藤原頼通 刀剣ワールド
藤原頼通は父・道長の後ろ盾によって猛スピードで出世。父の跡を継いで若くして摂政に就任。さらに関白を50年以上も務めています。父とともに藤原氏の最盛期を築きましたが、その後、摂関政治の衰退によって権威を失っていきました。
「藤原頼通」道長の長男 摂関の地位に半世紀、栄華の日々と落日 戦国ヒストリー
藤原頼通は26歳で摂政、28歳で関白に就き、後一条、後朱雀、後冷泉の3代の天皇の約50年間君臨しました。摂関政治の全盛期を父・道長からリレーしたと言えます。
52 摂関政治の衰退と院政の始まり YouTube高校
摂政・関白として権力をふるった藤原氏は藤原頼通の時代から衰退していき院政と呼ばれる時代に入っていきます。栄華を誇った藤原氏がなぜ頼通の時代から衰退したのか?について解説しています。
②藤原頼通の言葉にふれよう →TOP
藤原頼通 千人万首(よよのうたびと)
頼通は「いとどしく春の心の空なるに又花の香を身にぞしめつる」「有明の月だにあれやほととぎすただ一声のゆくかたも見む」などの歌を詠んでいます。歌合を催するなど、歌壇の後援者として大きな存在でした。また、私家集の集成や歌合類聚事業など和歌史上の功績もあります。
③藤原頼通の生き方から学ぼう →TOP
愛する妻を想い涙。道長の息子・藤原頼通の人生とロマンスの行方 和樂Web
頼通は右大臣の藤原実資に相談をして物事を決めることが多く、政治に熱心ではないものの協調性があったとも評価されてもいます。藤原資房は『春記』の中で頼通のことを「本来はめぐみ深く、やわらいだ心の持ち主で、これが第一の長所だ」と書き残しています。
平等院を建てた道長の息子、藤原頼通をわかりやすく紹介するよ【その2】 まれなきドットコム
藤原頼通はなんと50年間も摂政・関白として君臨しました。道長が下地を作ってくれたせいもありますが、長期政権を維持できた頼通は権力者として評価できるのでしょうか?それともできないでしょうか?
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平等院 ?鳳凰堂、平安時代に藤原頼通が地上に極楽浄土を再現するとして建立。ご存知10円玉のデザインの建物です。 [No.103] QUICK GLANCE KYOTO
ユネスコ世界遺産の平等院は10世紀末に貴族の別荘として建てられ、11世紀初頭に藤原頼通が寺院に改めました。国宝の鳳凰堂は西方極楽浄土をこの世に現すべく建立され、正面から見た姿が鳳凰が翼を広げたように見えるため、こう呼ばれています。
藤原道長の権力の象徴「平等院鳳凰堂」 名古屋刀剣ワールド
平等院鳳凰堂は頼通が創建した寺院です。1対の鳳凰を屋根の両端に載せた建物を鳳凰堂。正式名称が平等院です。平安時代後期の仏教思想や美意識が盛り込まれ、藤原氏の栄華を望む願いが込められています。
世界遺産 平等院
平等院のホームページです。
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