尾形光琳
概要 ①足跡を辿ろう ②作品にふれよう ③生き方から学ぼう さらに学ぼう

尾形光琳 万治年(1658年)~享保元年(1716年)
尾形光琳は京都の裕福な呉服屋雁金屋の次男として生まれました。やがて琳派として江戸時代中期の元禄文化の中で装飾豊かな大和絵の画風を確立します。光琳は通常のキャンパス以外に蒔絵や茶器さらには女性の和服である小袖の下絵(意匠図案)など様々な物に描きました。肖像は国立公文書館デジタルアーカイブ「先哲像伝 第5冊」より
①尾形光琳の足跡をたどろう →TOP
尾形光琳 刀剣ワールド
〇裕福な生まれであった尾形光琳は30歳の時に父親が亡くなり莫大な遺産を相続しますがそれらを放蕩の末使い切ってしまいます。そして40歳を目前に画家として生きることを決意します。光琳は父から絵の手ほどきを受けたのをはじめとして山本素軒から狩野派の画法を学んだほか、俵屋宗達や本阿弥光悦の画法や工芸を吸収して琳派といわれる様式を確立しました。しかし光琳の画家デビューは順風満帆ではありませんでした。生活に困窮した光琳は京都生まれで江戸詰めとなった豪商の中村内蔵助を頼って江戸に移り彼の口利きで大名や豪商向けに屏風絵などを制作します。江戸滞在は5年に及びますが再び京都に戻って新居を構え1716年(享保元年)59歳で亡くなるまでこの地で歴史に残る作品を制作することになります。光琳の作品は絵画に止まらず、書や工芸など広範囲の分野で美を追求しています。
②尾形光琳の作品にふれよう →TOP
燕子花図屏風 日本の美術
伊勢物語の八つ橋の場面に着想を得た燕子花(かきつばた)が咲き誇っている様を描いています。写実的というわけではありませんが金地に緑と青を際立たせて圧倒的な存在感があります。
紅白梅図屏風 日本の美術
光琳最晩年の作をいわれています。水の流れの左右に紅白の梅を配していますが紅梅は太い幹から上に伸びていますが白梅は枝が細く下に垂れさがっています。光琳は最も効果的と感じた構図で描いたのでしょう。
竹に虎図 日本の美術
竹林と虎の構図はこれまでにも多くの絵が描かれてきましたが、この光琳の構図は独特です。正面の虎に猛々しさは無くどこかユーモラスな表情をしています。この絵は墨絵のため重ね塗りはできません。虎は墨でさらりと描かれており筆跡がそのまま残っています。それでいて虎の存在感が際立っているのは構図の大胆さと光琳の画力でしょう。
③尾形光琳の生き方から学ぼう →TOP
《1分名画 0028》風神雷神Ver2.はアートよりデザイン重視|尾形光琳《風神雷神図屏風》totoArt
光琳は私淑(ししゅく)と呼ばれる方法で美を追求しました。私淑とは直接弟子入りなどして学ぶのではなく自分で良いと思った作品を模写したりしてその技法を学び、やがて換骨奪胎して自分のものにしていく学び方です。例えば光琳は京都建仁寺にある俵屋宗達の「風神雷神図屛風」の模写を依頼されます。模写ですから全体の構図は同じですが宗達の雷神が下界を見下ろす視線で描いているのに対して光琳は雷神が風神をまっすぐに見て両者を一体として描いています。光琳の私淑を呼ばれる学びの手法は琳派と呼ばれる会派に受け継がれ継承されていきます。
さらに学ぼう →TOP
尾形光琳の菩提所・興善院旧跡 京都観光旅行のあれこれ
⑤ 光琳の墓:尾形家の菩提寺であった興禅院』は廃寺となり興善院跡に再建されたもの『泉妙院(せんみょういん)に再建されています。
光琳屋敷 ちんけでさびれた旅
光琳屋敷:熱海のMOA美術館に京都にあった光琳の二条新町屋敷が復元されています。
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