第20回 人物自由、神奈川県横須賀市立中学2年130名、神奈川県横須賀市、R070408
実施学年: 2年生
対象人物: 歴史人物学習館に掲載されている159名から、自由に選択させる
(※クラスの中で同じ人物を選択しないないように調整)
参加人数: 130名
表彰日: 令和7年4月8日
実施教師のコメント:
生徒たちが自分の関心や興味に基づいて歴史人物を選びました。発表時間は2分に設定しました。短い時間で、歴史人物の魅力やエピソードをどう伝えるか?試行錯誤しながら原稿を作成することを通して、偉人に心を寄せていく様子が見られました。
歴史人物学習館 伊勢雅臣コメント:
歴史人物学習をして、2分間スピーチでその人物を紹介するという授業をされていたので、見学させていただきました。
自分で感想文を書いて、それを暗記し、2分間でクラスの中で発表するという形式で、各自の感じたこと、考えたことを互いに共有する優れた試みと感じました。
また、人物は歴史人物学習館の掲載人物から自由に選んで良い、ということで、昭和天皇から東郷平八郎、吉田松陰、ペリー、明智光秀、上杉謙信、聖武天皇など、実にバラエティがありました。互いの選んだ人物の感想を聞くだけでも、勉強になると思いました。
また、生徒は聞いているだけでなく、発表者一人ひとりに評価と一行コメントをする、というので、皆真剣に聞いていました。
こういう実践を通じて、歴史人物学習の方法が広がっていくことに、大変、ありがたく思いました。
また賞品の図書カードは、優秀者が受け取るのではなく、学年全体で図書購入に充てる、ということで、その図書選択自体が生徒さんたちにとって、良い学びの場になると思いました。

優秀感想文 25名(★★★は当館が特にお勧めする感想文です)
【1 源義経】男子
源義経は頼朝の平氏打倒に馳せ参じ、一の谷・屋島・壇ノ浦の合戦を経て平氏を滅ぼし、源平合戦で最大の功労者になった人物です。今では、大河ドラマや漫画のテーマになるほど有名で人気です。これから源義経がどのようにして多くの人から慕われ絶大な人気を得たのかプレゼンします。
義経は、兄頼朝のために素晴らしい働きや功績を残したのですが、その頼朝に襲撃され殺されてしまいました。優れた軍才を持ちながら非業の死に終わった義経の生涯は、多くの人々の同情を呼び判官贔屓と呼ばれるようになりました。判官贔屓とは、弱い立場に置かれている者に対して同情して味方をし、援助することです。このように弱い立場の義経に同情し、味方をする人が多いので義経は有名になったのだと考えました。また義経には有名な伝説がたくさんあります。その伝説の中でも特に有名なのは武蔵坊弁慶との堀川小路から清水観音での出会いです。弁慶は、義経の太刀を奪おうと義経に襲いかかります。ですが、義経は軽快な体で橋の欄干を飛び交い、弁慶を返り討ちにしてしまうのです。このように義経には戦の伝説がたくさん残っています。なので、義経は人気になったのだと考えました。
義経の最後は世の中の多くの人の同情を引き、多くの伝説、物語を生みました。これが義経が多くの人から慕われ絶大な人気を得た理由だと私は考えました。
【2 北条早雲】男子
北条早雲といえば、私達の神奈川県を拠点とし戦国大名の先駆けとなり、世の中に大きな影響を与えた人物です。しかし、北条早雲という名は本人は一度も名乗っていないと言われています。ところで皆さん、「北条」という姓に聞き覚えはありませんか?北条という姓は、鎌倉幕府の執権の座を独占した一族の姓と同じ姓です。今回は、北条早雲の名前の謎について迫っていきます。
早雲はもとは武家の名門であった伊勢氏で、伊勢新九郎という人物が後の北条早雲と考えられています。では、なぜ伊勢ではなく北条に姓が変わったのでしょうか。それは、早雲の嫡男である氏綱が執権の北条氏を尊敬して北条姓を名乗るようになったからです。関東でのネームバリューがある北条姓を名乗る事によって新たな大名が出現したということを世の中に周知したかったのではないでしょうか。また、家紋も前北条氏の三つ鱗を使い始めました。次に「早雲」がどこから来たのかについてですが、これは早雲が出家して早雲庵宗瑞と名乗るようになり、そこから取られたものです。そして、早雲は北条の名に恥じることなく良い政治を行いました。四公六民という税を定め、水道設備を整え、民衆が安心して暮らせるような生活の基盤を整えました。
つまり、ここには先人を敬い、自分もそうなれるように動くという早雲一族の日本人らしさが表れてい
るのです。
【3 東郷平八郎】女子
薩摩藩に生まれた東郷平八郎。日本の海軍軍人であり、特に日露戦争での活躍で広く知られています。日露戦争以外にも数々の戦争でも活躍した人物で、彼の指導力と戦術のおかげで日本に大きな自信と国際的な評価をもたらした形跡があります。そんな東郷平八郎について紹介していきます。
まず東郷平八郎は薩英戦争・戊辰戦争に従軍し、後にイギリスに留学しました。日清戦争と日露戦争では、日本海軍を指揮し、日本を勝利に導いた海軍です。また、日本海で行われた海戦では世界最強といわれたロシアのバルチック艦隊を相手に東郷平八郎は横須賀にある戦艦「三笠」に乗って戦争に挑みました。この戦争の勝利は、東郷平八郎の180度転進する「東郷ターン」の効果があったため、それが勝利に繋がりました。これにより日露戦争の勝利をほぼ決定づけたのです。その勝利は日本だけでなく世
界的にも大きな影響を与え、東郷は世界三代提督の1人とされたのです。
数々の戦争で活躍してきた東郷は戦術に力があるだけでなく、人としての人柄が注目的でもありました。リーダーシップ、戦時の冷静さがあったためそれが尊敬を集めたのです。そんな東郷平八郎像は戦艦三笠が保存されている三笠公園の入口にあるのでぜひ行ってみてください。
【4 上杉謙信】男子
日本人の武士の精神はスポーツなどを中心に世界で度々取り上げられ、称賛されています。武士の精神の「武士」と言われると天下統一を目指して戦をしていく人を思い浮かべる人が多いでしょう。その中にも、自分より他の人のために戦った武将がいます。上杉謙信です。今回は上杉謙信とその素晴らしい精神についてお話します。
上杉謙信は越後(当時の新潟)の戦国武将で、武神と呼ばれるほど戦に優れていました。織田信長も倒
せるかもしれないと言われたほどです。
そんな上杉謙信が行った代表的な戦いに川中島の戦いがあります。この戦いを謙信が行った理由も謙信
の近くの武将が、武田信玄に攻められていると上杉謙信に頼ってきたことが始まりです。
「我に天下の欲なし」という言葉を残していることからもわかるように、上杉謙信は自分の欲ではなく
他人のために戦っていたのです。
また、川中島の戦い中に敵の武田信玄の国が塩を他の国から送ってもらえなくなって弱っていた時期がありました。その際謙信は「武士は刀で直接戦うべきだ」という意味の言葉を残しており、敵である武田信玄に塩を送ったと言われています。
このように、上杉謙信は他の人のために戦い、武士として真っ向勝負を望んでいたのです。
このような武士の精神は私達に真っ向から勝負する心構えを教えてくれます。私達も何かの競争の際は相手を引きずり下ろすのではなく、真っ向から勝負してみましょう。
【5 板垣退助】女子 ★★★
「私の行動が国家の害と思ったらもう一度刺して構わぬ」これは板垣退助が残した名言の一つです。これは板垣が国家のことを本気で考え、かつ責任感をもって行動していた証の言葉とも言えます。
この名言からわかる板垣退助の人柄や、それに関する名言を紹介します。
1882年、自由民権運動のさなか岐阜県での演説のとき板垣は暴漢に刺され、暗殺未遂事件に遭います。刺されたときに言ったことば「板垣死すとも自由は死せず」は、自由民権運動の象徴となっていきました。
本来、暗殺未遂と言われるまで刺した犯人のことを許したくないだろうと考えましたが板垣は違いました。死刑になるところをやめてほしいと何度も頼み込み、釈放まで許していました。
このあと、謝罪に訪れた犯人に対して板垣は、はじめに紹介した「私の行動が国家の害だと思ったらもう一度刺して構わぬ」といったそうです。わたしはこの言葉に、国家の大きく変わる行動をしていると自覚して責任感を忘れず行動していた板垣の人物像が見えました。また、刺されたにも関わらず犯人を許してしまう寛容さが伺えます。
暗殺未遂事件を通して板垣の国を思う心が見えました。
思う心一つでここまで行動、発言できる板垣は現代人が見習うべき姿であると感じます。
【6 北里柴三郎】女子
人に熱と誠があれば何事でも達成する。北里柴三郎が残した最後の言葉です。細菌学者であり日本の医
学を大きく発展させた人物として称賛され続けています。今回は北里柴三郎の人生の歩み方についてお
話します。
現在、1000円札として知られている北里柴三郎は細菌学者として世界初、破傷風の治療法を開発し、明治27年香港でペスト菌を発見しました。そんな彼は熊本県で育ち、東京大学医学部に入学しています。そこで医者の使命は病気を予防することであると確信を得ました。その言葉を胸に予防医学を生涯の仕事にすることを決心し、今でも続く医療の発展のきっかけになったと言われています。加えて彼は慶應義塾大学医学部を設立し、初代医学長に就任、更に病院を設立して社会活動にも従事しました。1931年に脳溢血により亡くなりますが、人生を医療のために注ぎ込んだ姿は誰もが尊敬するものだったでしょう。皆さんは人生を医療に捧げる人生をどう思いますか?
このように北里柴三郎は社会に大きく貢献し、医者のお手本となるような存在であり続けました。人に熱と誠があれば何事でも達成する。彼の最後の言葉は今後も称賛され続け、偉大な名言として受け継がれて行くでしょう。
【7 手塚治虫】男子
「鉄腕アトム」や「ブラックジャック」などの作者である手塚治虫は、病にかかっても漫画を書き続けた偉大な人物です。今回はそんな手塚治虫についてお話します。
1928年、手塚治は大阪府に生まれ、小さい頃学校でいじめられていました。しかし、治が漫画を好きになり、自分で漫画を書き始めると絵がとても上手で同級生に気に入られ、いじめられなくなりました。
時が経ち、治虫が漫画家になると、漫画「ジャングル大帝」がヒットし、売れっ子になります。ですが、当時の大人たちは「漫画なんて、くだらない」と怒り、学校では、先生や親が集まって漫画を捨てたり焼いたりしていました。そのことに手塚治虫はとても心を痛めました。そしてより一生懸命に漫画を書き続けました。誰もが夢中になれる漫画を探し続け、自分より若い漫画家も育成しました。漫画が大好きな手塚治虫だからこそ、諦めず書き続けたのです。しかし、手塚治虫は働きすぎて、胃癌にかかってしまいます。胃癌によって漫画を描くのに支障が出ても、漫画を描き続けました。「最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか。」これは手塚治虫が遺した名言で、たとえ病にかかっても手塚治虫は最期まで努力を続けました。
1989年、手塚治虫は60歳で逝去しました。
手塚治虫は今日まで続く漫画の表現や技法を確立させ、日本の漫画界に大きな影響を与えました。
自分の好きなものにとことん突き進み、病にかかっても最後まで努力をした手塚治虫の生き方は、これから自分が生きていくうえで参考になると感じました。
【8 徳川家康】男子★★★
「不自由を常と思えば不足なし」これは徳川家康が残した遺訓です。この言葉は家康自身の人生や戦国時代を生き抜いた彼の知恵そのものです。今回は、この遺訓をテーマとしたプレゼンを通して家康の生き様やその考え方について伝えていきます。
家康は幼少期から多くの困難がありました。父親を失い、人質として送られるなど大変な経験ばかりでした。しかし、家康はそのような不自由な状況を常に受け入れ、それを乗り越える力を身につけました。「不自由を常と思えば不足なし」というのは困難な状況になったときに後ろ向きに捉えるのではなく前向きに考え、工夫することが大切という意味です。家康は戦国時代の中で生き抜くために、状況に対応し、耐え忍ぶことを学びました。例えば、家康は織田信長や豊臣秀吉など強力な武将と同盟を結んでいても、逆らうことはありませんでした。それは、従うという意味ではなく、チャンスを狙い、慎重に行動するという考えを持っていたからです。また、この遺訓は、ただ我慢するということではなく、自分がいる環境を受け入れ、そこから何ができるかを考えることが大切だという意味もあります。僕達にとっても、思い通りにならないことはたくさんあります。しかし、それを不満に思うのではなく、受け入れ、自分にできることを考えることで、より良い生活を送れるのではないでしょうか。
徳川家康の人生はまさにこの言葉そのものです。家康は困難の中でも諦めず、日本に平和をもたらすことを実現しました。この教えは僕達が生きていく上でも大切な考え方です。皆さんも困難にぶつかったときには「不自由を常と思えば不足なし」という言葉を思い出し、前向きに乗り越えていきましょう。
【9 葛飾北斎】女子
私は海とお茶漬けが好きです。お茶漬けの袋に名画カードが入っているのを知っていますか。その中には、ダイナミックで圧倒的な技術力とユーモアあふれるモチーフの表現がされている波の絵があります。波の絵を描いたのは葛飾北斎です。今回は葛飾北斎の魅力と人生についてお話します。
葛飾北斎には数々の有名作品があり、中でも神奈川沖浪裏は特に人気の作品です。神奈川沖浪裏は波が船を呑み込みそうな迫力のある構図で描かれており、背景には小さく富士山が描かれています。ただの風景画ではなく、自然の力、生命の脆さ、人間の力の限界を描いた深い意味を持つ作品として高く評価されています。葛飾北斎はこの1000年で最も重要な功績を残した人物として日本人でただ一人ノミネートされています。ノミネートされた人物の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチもいます。葛飾北斎は幼少時から亡くなる直前まで絵に没頭されていたと言われ、部屋の掃除をせず汚れが限界になると引っ越しを繰り返していて生涯でなんと93回もの引っ越しをしたと言われています。絵がうまくなりたいと浮世絵以外の画法や西洋画についても学び日本国外にも影響を与えた葛飾北斎ですが無くなる直前には天があと10年いや5年命をくれるなら真の絵師になれただろうにと最後まで自分に満足することがありませんでした。このように自分の好きなことにずっとまっすぐで真剣な姿は今の私達の将来の手本になっていると感じさせてくれました。
【10 菅原道真】男子
平安時代に猛威をふるった学者であり政治家の菅原道真。今回は彼の知られざるルーツについてお話します。
道真は幼少期から天才と呼ばれ、37歳で学者の最高位につくなど数々の功績を残して来ました。
しかし天才であったが故に怨霊伝説へとつながってしまうのです。
まず怨霊とは?簡単に言うと恨みを晴らそうとする霊のことです。
道真は死後怨霊となり多くの事件を起こしました。
それはなぜか?遡ること西暦901年
その経歴もあり道真は宇多天皇というのに気に入られ、政界に足を踏み入れます。
天皇の2つ下の位まで出世、遣唐使廃止など存在感を示します しかしその宇多天皇が摂関政治を嫌っていたため
藤原氏と対立しており
藤原氏は「道真が醍後天皇の失脚を企んでいる」と嘘の密告をしたのです
道真は九州へ左遷され病に伏し59歳で亡くなりました
その結果道真は、自分を陥れた藤原氏や天皇への恨みを晴らすため、関係者の不審死や洪水、ついには天皇の家に雷を落とすなど、多くの事件を起こしたのです
そして人々は怨念を鎮めるため左遷を取り消し、神社に祀り、今では天神であり学問の神として多くの人々に親しまれているのです
この他にも、すべての道真公のいる神社に牛がいるのは道真が丑年に生まれ、丑の日に亡くなったから、など、数々の逸話があります
天才学者であり日本文化を確立した大物政治家であり神でもあるそこに私は魅力を感じたのです
【11 大隈重信】女子★★★
大隈重信。明治維新という激動の時代に生きた偉大な政治家であり、日本の近代化を推し進めた人物です。彼の名前は多くの人に知られていますが、その生涯には驚きのエピソードが隠されています。
政治家として活動していた彼は富岡製糸場の設立など多くの事業に携わり、日本の近代化の基礎を築いていきました。中でも鉄道を設けることは日本の産業や文化を一気に発展させたもので、私にとって彼が成し遂げた最大の功績だと考えています。一方、彼がこのような大胆な改革を進める中、同じ政治家である伊藤博文はより慎重な改革を進め、意見の食い違いから時には対立することもありました。ですが、それこそが彼が近代化を推し進めるために必要な実行力だったと考えます。そんなある日、彼は爆弾を投げつけられ右足を失う大怪我を負いました。しかし彼は、ここで驚くべき姿勢をみせます。「爆弾という文明の利器にやられたのだから本望だ。」と語り、爆弾を投げつけた者を責めることもなかったと言われています。この事件後もなお、彼は「改革者」としての立場を貫き、日本の近代化を進めるべく活動を続けたのです。これは、彼の精神的な強さを象徴しているとも捉えられます。
彼の強い意志と行動があったからこそ、今の日本があります。私たちも彼のように、挑戦を恐れず、未来に向けて力強く進んでいかなければならないと、そう私に感じさせました。
【12 源義経】女子★★★
戦の天才と呼ばれた源義経は平家を滅ぼし、鎌倉幕府設立に大きく貢献しました。しかしそんな彼は悲劇のヒーローと呼ばれるほど悲しい最期を迎えることになります。今回はそんな義経公についてお話します。
これは何の数字だと思いますか。実は義経がジャンプで跳んだ距離です。これに加えて30キロ程度の防具も着ていました。義経の名言は戦というものは、はじめから逃げ支度をしては、なんのよいことがあろうかです。最初から逃げることを考えているようでは戦には勝てないという意味です。私も最初から苦手という理由でプレゼンを諦めたくなかったので、プレゼンを成功させるために東京国立博物館に行ってきました。
義経は兄との和解を願い、壇ノ浦で使った自分の刀、薄緑を現在の箱根神社に奉納しました。源氏の名刀である薄緑を奉納することは自分を下げ、兄と同じ立場を避ける意味があります。しかし兄の怒りは静まらず、義経は自害へと追い込まれます。
私は薄緑を見に行きました。その刀はとても美しく、私に義経の最期まで決して諦めない気持ちを感じさせました。そんな義経の姿勢が逆境の中でも家臣や妻が着いてきてくれた理由だと私は考えます。
【13 与謝野晶子】女子
わたしは与謝野晶子のことについて調べました。調べた結果、沢山の作品で与謝野晶子の人生や性格が繋がっていることが感じられました。作品を通してその感じられたことを皆さんにお話しします。
晶子の作品の一つに「みだれ髪」という作品があります。直接的な恋愛表現を書いた晶子は作品に不適切な文があるなどの理由で批判を受けました。批判を受けた晶子は作品を出すことに抵抗が生まれたのではないかと考えます。ですが批判を受けた反面多くの支持者を持った晶子はこれからも自分の気持ちをありのままに発信し続けることに決めました。そのあと、「この世にたった一人の君以外にまた誰かを頼るべきなのでしょうか」と弟の悲痛な思いや願いが込められている「君に死にたまふことなかれ」を歌いました。反戦運動を行った晶子の作品への強い気持ちが伺い知れます。また「そぞろごと」では自分の思想を確立する大切さを歌い、以前より晶子の作品に対する考えが強くなったと感じられます。
こうして徐々に当時の理想となる女性像を打ち破った晶子は”強い女性像”として人々から共感を集めました。
作品を通して晶子は批判を受けましたが、その批判に屈することなく自分の気持ちを発信し続けました。
晶子のこのような姿勢から批判されても自分の信念を曲げないことの大切さを感じさせてくれました。
【14 歌川広重】男子
歌川広重は東海道五十三次をはじめとする浮世絵を描き、ヨーロッパにも影響を与えた人物です。しかし、名言では「この世に筆を残して天国へ行っても、名所を見て回る旅をしたい」と書かれています。
なぜ広重は「絵を書きたい」ではなく「旅をしたい」と書いたのでしょうか。そこで私は広重の人生や絵について調べ、名言の真実を探りました。
まず広重の親は定火消という江戸の防火をする定火消の仕事をしていましたが、13歳の頃に両親を失い若くして家業を継ぎます。しかし、広重は幼少期から好んでいた絵への情熱は仕事を継いでも止まらず、しかも絵の修業までいました。このように大変だった広重はなかなかヒットしませんでした。そして23年間後広重は長い修業の間に習得した日本独自の絵の書き方やヨーロッパの遠近法を利用した東海道五十三次を発表し、見事に大ブームとなりました。それから広重は定火消をやめ本格的な浮世絵師になり、四季折々の名所絵を描き代表作である江戸名所百景などを描きました。ちなみに広重は金沢八景の八景や田浦梅の里など私達の身近なところでも浮世絵を描いています。
このように広重の人生は大変でしたが、幕末の日本を絵で癒やしていたため、そして長年努力した絵は旅によって才能が開花されたため「旅」は広重にとって特別な思いが込められていました。
【15 カール・ユーハイム】女子★★★
日本では3月4日はバウムクーヘンの日です。1919年に広島でカール・ユーハイムが日本で初めてバウムクーヘンを焼いたことを記念し、そう制定されました。彼はWW1の時に捕虜として来日し、釈放後も日本に残って洋菓子の魅力を伝え続けました。今日は、彼の波乱に満ちた来日後の人生についてお話します。
カールの日本での菓子職人人生は、1919年の広島で始まります。そこでは、ドイツ人捕虜の作った作品を展示・販売する催しが行われ、彼もバウムクーヘンなどのドイツ菓子を販売し、見事好評を博します。これがきっかけで釈放後も日本に残り、妻子を呼び寄せて横浜で洋菓子店を開きます。名前はユーハイム。ドイツ語で楽しい家を意味します。しかし関東大震災により店が焼失したため、神戸に移り再び店を構えます。店は神戸に住む人々の声で賑わっていたそうですが、WW2の空襲により工場を失います。その上カールも終戦前日に死去、妻エリーゼは終戦後ドイツに強制送還。カール夫妻の偉業は途絶えてしまった…かと思いきや、カールの元で働いていた日本人が、店の復興を目指して再び店を開きます。エリーゼもこの話を聞いて再び来日。ユーハイムの再出発です。
生前にカールはこんな言葉を残しています。革新が伝統を築く。日本にとっての革新が、今も残る老舗、つまり伝統であるユーハイムを築いてきた、と取れる言葉ですね。
戦争や震災に見舞われても決して屈せずに何度でも立ち上がり、今も続くユーハイムだからこそ、時代を超えて愛され、伝統を伝え続けられているのでしょう。
【16 森蘭丸】女子
みなさんは、本能寺の変と聞いたら織田信長を思い浮かべる人が多いと思いますが、私は森蘭丸という人物が一番に思いつきます。今回はその森蘭丸という人物の生涯と、蘭丸と信長の意外な関係性についてお話したいとおもいます。
まず、森蘭丸の生涯についてお話します。森蘭丸は安土桃山時代の武士で、父・森可成は織田信長の客将として織田信長を支えた武将だったため、幼少期から織田家に仕えられるようにと厳しい英才教育をうけていました。その厳しい英才教育から、蘭丸は武芸や学問はもちろん戦での活躍もすばらしく、敵にも認められる素質があったため、信長のお気に入りの小姓となっていきました。更に容姿も美しいことから「美少年」と噂されるほどでした。そして蘭丸は、”本能寺の変”で最後まで信長のそばを離れずまもりぬき、18歳の若さでなくなりました。
次に二人の関係性についてお話します。蘭丸は忠義を尽くす性格だったり、どんなときでも正直な性格でした。そんな彼は信長の”自慢できるもの”の第三に蘭丸がはいるほど、信長は蘭丸を大事にしていました。二人は、信頼関係はもちろんのことお互いに恋愛感情を抱いていたという話も有名です。
このように、”本能寺の変”を振り返ると、信長と蘭丸の関係は儚く美しい、そしてこのような関係は現代の多様性を象徴するものだと私はおもいます。
【17 杉田玄白】男子★★★
外国の翻訳本を出版するだけでも、罪に問われる事がある鎖国時代です。そのような時代の中、外国の医学書の精密さに驚愕した1人の藩医、杉田玄白は仲間と共に翻訳に挑戦しました。杉田玄白らは血の滲むような努力の末、日本の医学に貢献しました。
まず代表作の解体新書についてお話します。玄白の後輩がオランダ商館から借りたオランダ語医学書「ターヘル・アナトミア」を持参し玄白のもとへ訪れました。オランダ語の知識はないので読めませんでしたが、医学書の精密な人体解剖図に驚きました。その内容は自分の知識とは違ったからです。刑場で罪人の解剖を行い、正しい人体構造を学びました。治療に役立てたいと仲間と0から翻訳を始め、3年半もの時間を費やして解体新書は完成しました。翻訳不可能な言葉は、造語として新しくつくりました。造語の中には皆さんが当たり前に使っている神経、軟骨、動脈などがあります。
次に名言「昨日の非は悔恨すべからず。明日これを念慮すべし」。意味は昨日の失敗を悔やまないこと。明日のことは過度に心配しないことです。この名言から玄白が翻訳する際に、失敗を恐れず常に前を向いて取り組んでいることがわかります。
血の滲むような努力の結晶である解体新書は、現在の医療の根源になっています。杉田玄白の行動や名言が、私にたとえ0からでも失敗を恐れず挑戦する大切さを感じさせました。
【18 井上毅】男子
大日本帝国憲法の起草者。そう聞いて思い浮かべる人物は私は伊藤博文だけです。ただ、他にも起草に関わった大切な人物は多く存在します。今日はそのうちの一人の井上毅についてお話します。
井上は熊本の下級武士の下に生まれました。幼少期から常に本を読んでいた井上は当時秀才と呼ばれていました。その秀才と呼ばれる高い知能から当時通っていた藩校では給付金付き学生に選ばれるほど優秀でした。その後も藩からの指示で国内留学をしたり、フランス語を習得したりするなどその存在は次第に政府にも知られていきました。明治維新後は現在の東京大学で学び、司法省に入り役人となりました。明治5年には西欧使節団の一員としてフランスへ渡欧しました。
フランスでは西欧諸国の司法制度や法律を学びました。ここで井上は憲法は日本の文化に基づいたものである必要があると考えました。この考えを元に伊藤博文等とともに大日本帝国憲法を起草しました。また、清との外交交渉に向かった大久保利通に同行した際は、井上が作成した交渉文章が高く評価され、その後も大久保に重宝されました。
このように井上さんは日本の現在の文化に大きく影響を与えました。ただこんなすごい人物であるにも関わらず私は名言の一つも見つけられませんでした。もしかすると井上さんがいないだけでも日本は西欧文化に染まり、日本の文化を守れていなかったかもしれません。現在の日本文化が好きな人は特に井上さんに感謝するべきだと感じました。
【19 雪舟】女子
今日、私がお話するのは、かの有名な雪舟についてです。
みなさんも最近まで、美術で水墨画をやっていましたが、水墨画ってとても難しいですよね。
そんな水墨画の巨匠の雪舟、実はとても不器用で遅咲きだったのはご存知ですか?
今回は意外と知られていない雪舟の人生について紹介していきます。
雪舟は禅僧になるため、幼少期はお寺で過ごしました。
室町時代では水墨画ブームが到来、20歳で雪舟は画家の周文の弟子となりました。
35歳で京都から山口県へと移り、絵を習うため明に渡航したかった雪舟は当時、明と交流していた大内氏を頼った説もあります。その後、雪舟は明へ行きましたがその時点で48歳になっていました。
修行を終え日本に帰ってきた雪舟は絵を描き続け、その名を轟かすようになりました。当時の平均寿命が約40歳なのに対し、雪舟は87歳まで生きました。
今では、雪舟の水墨画はなんと国宝が6点も、個人の画家で最も多く国宝に指定されています。
ちなみに雪舟は幼少期、涙で鼠を描いたという話がありますが、あれは嘘のようです。
雪舟の絵は私に墨の濃淡だけで描く水墨画の素晴らしさを感じさせました。雪舟のように美しく力強い絵が描けるのは尊敬でしかありません。
この調べを通して、私も雪舟のように何かをずっと一生懸命にやり続けたいと感じました。
不器用な人でも、いつか成功すると希望を持ってほしいです。以上です、ご清聴ありがとうございました。
【20 樋口一葉】女子
旧五千円札の肖像画、樋口一葉。樋口一葉は明治時代に活躍した女性作家です。
本が大好きだった樋口一葉は20歳で小説を書き始め、極貧生活に苛まれながら、数々の名作を残しました。24歳という若さで亡くなり、女性に厳しい時代を生き抜いた樋口一葉は、一体どんな人物だったのでしょうか。
樋口一葉は学校を首席で卒業するほど頭が良く、幼少期のほとんどを本と共に過ごしました。卒業後、歌塾へ入門し、和歌の才能を十分に発揮します。しかし、借金を残したまま父が亡くなったことで、一気に生活が苦しくなります。雑貨屋を開業したりと日銭を稼ぎましたが生活は苦しいままでした。
そこで一葉は、小説を書いて家族の生活を支えよう、と決意します。
複雑な人間関係がテーマの「にごりえ」、身分による差別を描く「たけくらべ」など名作を一年の間に次々と発表しました。そのため、「奇跡の1年間」と呼ばれています。
彼女は、極貧生活の苦労や当時の社会に残る女性差別など、自身の辛い経験を元に小説を書き続けました。彼女の小説は人気を集め評判を高めましたが、肺結核に倒れ24歳という若さで亡くなってしまいました。
一葉は、厳しい生活を送りながらも努力を惜しまず、短い人生の中で偉大な作品を残した女性です。彼女の作品は現代にも通ずるようなメッセージも含まれており、これからも注目されるべき作家といえるでしょう。
【21 紫式部】女子
2000円札に書かれており歌人としても活躍し日本最古の長編小説を書き、宮廷中に名を響かせた女性紫式部。彼女が生み出した作品は今も昔も大きな影響を与えています。では一体どのような作品なのでしょうか。そして作者である紫式部はどのような人物なのでしょうか。今回はこの2つについてお話します。
源氏物語や和歌など様々な作品を生み出した紫式部。紫式部は、幼少期から文学に目覚めました。当時女性が読み書きするのは一般的なことではありませんでしたが。優れた才能を活かし日本最古の長編小説源氏物語を書きました。源氏物語を書き始めたのは夫が亡くなり、悲しみを乗り越えるために書き始めたと考えられています。その内容の素晴らしさから藤原道長の娘の教育係となりその後の詳細は今も
分かっていません。紫式部の作品源氏物語、その内容は日本文化の形成に最も深く影響を与え政治も左右させました。源氏物語の魅力的なところは美しい言葉や個性豊かな人物、時代や文化を超えた共感性などの魅力があり、紫式部はその鋭い洞察力を活かし作品を作りました。源氏物語は平安時代の文化や魅力を伝え、その文化や魅力は今世界中に伝えられています。源氏物語を通して今と昔は繋がっていると感じました。
紫式部の作品は現代でも世界中で愛されています。今回のお話を通して紫式部の作品は私に昔の文化などを現代に伝えてくれる大切な存在だと感じさせました。
【22 カール・ユーハイム】女子
私が紹介する歴史人物は日本で初めてバウムクーヘンを作ったドイツ人菓子職人のカール・ユーハイムさんです。
ユーハイムが第一次世界大戦中に日本軍の捕虜になったのがきっかけで日本にもバウムクーヘンが広まりました!
今回は、時代に翻弄されて日本へ渡ってきたユーハイムの人生についてお話します。
1914年第一次世界大戦が始まり彼は非戦闘員であったにも関わらず、日本軍の捕虜となり大阪の収容所に収容されました。
3年後、広島の似島検疫所でドイツ人捕虜の諸作品の展示会が開催され、ユーハイムはバウムクーヘン等の菓子を出展しました。
以前から日本人の好みを知っていた彼は、バターなどの脂肪分を控えた日本人向けにアレンジしたお菓子を販売しました。
戦争が終わり1922年には独立し横浜でレストラン『E・ユーハイム』を開店しましたが翌年関東大震災で店が焼失しました。
それだけでなく、神戸で新たに喫茶店『JUCHHEIM’S』を開店しますがユーハイムの精神状態が悪くなりました。
容体はその後も回復せず彼は「私は死にます けれど、平和はすぐ来ます」と言い残し1945年脳卒中の後遺症で亡くなりました。
ユーハイムはバウムクーヘンを通してピンチをチャンスとして活かしていく大切さを私に感じさせました。
それだけでなく、戦争や震災によって何度心を砕かれても焼き菓子を通して人々に幸せと喜びを届け続けたユーハイムに倣いたいと考えます。
【23 芥川龍之介】男子
芥川龍之介は世界でも多くの人に知られている小説家です。
まずは皆さんに芥川龍之介のことを少しだけ知ってもらうために、簡潔に説明します。芥川龍之介は小説家として、「羅生門」や「蜘蛛の糸」などの作品を残しました。
書いた作品は全部で378。今回は芥川龍之介が小説家になったきっかけについて話していきます。
芥川龍之介は、東京帝国大学で英文学を学んでいました。実は、英語教師だったんです。その影響で学生時代、西洋文学に強い興味を持ちました。英文学を学んでいて文章が得意だったこともあり、小説を書く動機となりました。
次に、芥川龍之介と、夏目漱石の関わりです。
芥川は、夏目漱石に文の指導を受けることになり、その時の「自分の中にある才能を信じて書いてみなさい」という漱石の言葉を受けたことが、芥川が文学に本格的に取り組むようになったきっかけになります。
次に、芥川の初期の短編作品「羅生門」が高い評価を受け、芥川の自信に繋がり、小説家として本格的に書き始めた動機です。
この3つが、主に芥川が小説家を目指すきっかけとなった出来事です。
最後に、横須賀に関係のある芥川の作品を紹介します。タイトルは「蜜柑」。海辺で出会った少女との出会いを通じて、主人公の心の変化を描いた短編小説です。今回のプレゼンを通して、皆さんが芥川の作品に興味を持って、沢山よんでもらえることを願っています。
【24 勝海舟】女子
初代海軍大臣となった勝海舟。幕末から明治時代にかけて活躍した、武士・政治家です。特に、江戸城無血開城を成功させ、大きな戦争から守ったことが有名です。他には、海外にも目を向け日本の近代化に大きく貢献し、今の日本を作る、大きな一歩となりました。今回はそんな勝海舟について紹介します。
勝海舟は、武力による戦いを避けるため、江戸城を明け渡し、平和的に解決したのです。これが、江戸城無血開城です。この決断により、江戸は戦いに巻き込まれることなく多くの人々の命を救ったのです。また勝海舟は、海外にも目を向け、日本の未来のために、西洋の文化を取り入れるべきだと考えていました。彼は咸臨丸という軍艦に、艦長として乗り込み、アメリカへ渡航しました。これは日本が世界
に一歩を踏み出した象徴的な出来事です。さらに政治の世界だけでなく、教育にも力を注ぎました。後進の指導に熱心であり、若い世代へ日本の未来を託そうとしました。勝海舟は、「成すなかれ、天意に違うことを」という言葉を残しています。これは人生には予測できない出来事があり、それに対して柔軟に対応することが大切だという意味です。この言葉は、私たちが日々の選択や行動を考える上で大変
重要な教えだったのです。
勝海舟は平和を守り新しい時代を切り開いた人だとわかりました。彼の平和を願う心と残した言葉は今の私たちにとって学ぶべきことが多かったです。
【25 武田信玄】男子
今回は僕と五十嵐先生がプレイしているにゃんこ大戦争に武田信玄の軍旗に書かれていた言葉、風林火山について説明します。なぜ軍旗に風林火山と書いたのか、追求していきましょう。
まず風林火山の意味は戦いにおける4つの心構えを述べた語のことです。風のように素早く動いたり、林のように静かに構えたり、火のような激しい勢いで侵略したり、山のようにどっしりと構えて動かない意味です。武田軍と北条軍が争った三増峠の戦いではキツツキの戦法を使い敵陣に自身の部隊を進軍させるなどして、敵軍を挑発しておびき寄せ、敵軍が気を取られている間に、背後から本隊が一気に攻
撃を仕掛けました。この戦法を使い、武田軍に軍配が一気に上がりました。
次に、なぜ信玄は軍旗に風林火山と書いたのか説明します。信玄は戦闘においては相手の動きや状況に応じて柔軟に対応し、必要に応じて迅速かつ力強い攻撃を行いながら、冷静さを失わずに戦うという戦術を重視しました。この言葉を軍旗に掲げることで、彼の軍隊がどのような心構えで戦うべきかを示すとともに、部下たちに指導理念を伝えたのです。他にも敵の弱点をつくためにデマを流したり、夜襲や
奇襲を仕掛けることもありました。これらの戦術は計画的に実行されるものだったのです。
以上のことから武田信玄はただ敵に突っ込むのではなく、様々な戦術を立てて敵を倒していったのです。ご清聴ありがとうございました。